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離縁されましたが、義理の息子が「いかないで」と泣くので困っています

掲載日:2026/05/27

 ローゼン侯爵家へ嫁いで三か月、夫であるアルフレッド・ローゼン侯爵とまともに夕食を共にした回数は、片手で足りる。伯爵令嬢セシリア・バルテンだった頃から覚悟はしていたけれど、夫婦というより、屋敷に置かれた客人に近い。


 それでも、居場所がないとは思わなかった。五歳になる継子ノエル・ローゼン侯爵令息が、毎朝、私の部屋の前で小さく背筋を伸ばして待っていたからだ。


「おはようございます、セシリアさま。きょうも、ぼくはいいこにします」


 最初にその言葉を聞いた時、五歳の子供の口から出る言葉とは思えず、返事が一瞬遅れる。五歳の子供が朝一番に言う言葉としては、あまりに寂しすぎた。


「ノエル様、おはようございます。いい子でなくても、朝のご挨拶に来てくださるだけで嬉しいですよ」

「でも、いいこじゃないと、めいわくになります」


 ノエルは笑っていが、両手は上着の裾を握りしめ、白い指先が少し震えている。



 ローゼン侯爵家の先代夫人は、ノエルが三歳の時に亡くなった。アルフレッド様は領地経営と王都の務めに追われ、使用人達は礼儀正しく世話をしていたが、幼い子供が甘える相手はいなかった。


 だからノエルは泣かなかった。転んでも、熱があっても、欲しい菓子があっても、必ず一度こちらの顔色を見る。「お水を飲みますか」と聞けば、「いただいてもよろしいですか」と返す。抱き上げようと手を伸ばすと、「おもくありませんか」と心配する。

 その度に、私は笑うしかなかった。そうでもしなければ、その場で抱き締めてしまいそうだった。


「ノエル様、今日は庭でお茶にしましょう。焼き菓子も厨房に頼んであります」

「ぼくも、いっしょに食べていいのですか」

「もちろんです。ノエル様のために焼いてもらいましたから」

「ぼくのため……ですか?」


 ノエルは、意味が分からないという顔で何度か瞬きをした。小さな唇が、何かを言いかけて閉じる。

 庭の東屋で、焼きたてのアップルパイを皿に置くと、ノエルは両手を膝に置いたまま、なかなか手を伸ばさない。私が一つ取って半分に割ると、ようやく安心したように手に取った。


「おいしいです。あまくて、あったかいです」

「厨房長が張り切っていましたよ。ノエル様が喜ぶ顔を見たいそうです」

「ぼくがよろこんだら、みんな、うれしいのですか」

「ええ。少なくとも私は、とても嬉しいです」


 ノエルはパイを持ったまま俯く。涙が皿に落ちたことに気付いたのか、ノエルは慌てて顔を伏せる。


「ごめんなさい。なかないつもりだったのに」

「泣いても構いません。涙は、悪いことをした時だけ出るものではありませんから」

「セシリアさまは、ぼくがないても、きらいになりませんか」


 その問いに、返事がすぐには出なかった。嫌いになるはずがない。

 私は椅子から立ち、ノエルの前に膝をつく。小さな手からパイをそっと受け取り、汚れた指先を布で拭いた。


「なりません。泣いたくらいで嫌いになるなら、最初から一緒にお茶などしません」

「ほんとうに?」

「本当です。明日も、明後日も、一緒にお茶をしましょう」


 ノエルは声を出さずに泣いた。けれどその日から、彼は朝の挨拶の後に、少しだけ私の袖を掴むようになった。



 夫であるアルフレッド様との距離は、変わらなかった。ローゼン侯爵であり、王都でも名の知れた冷徹な領主である彼は、食卓でも短い言葉しか発しない。

 ただ、ノエルの話をすると、銀の食器を持つ手が止まる。表情は乏しいが、話は聞いているようだった。


「本日、ノエル様は庭でアップルパイを召し上がりました。とても喜んでいらっしゃいました」

「そうか。甘い物は、あまり与えすぎるな」

「はい。夕食に響かない量にしております」

「……あの子は、君の負担になっていないか?」


 負担、その言葉には少し驚いた。


「ノエル様は、まだ五歳です。負担というのは、可哀想すぎると思います」

「そういうことを言いたいわけじゃない。君は、この家に慣れていない」

「慣れていないのは確かです。ですが、ノエル様と過ごす時間は苦ではありません」


 アルフレッド様が、こちらを見る。表情は変わらない。それでも、すぐには続きの言葉が出てこなかった。


「君は、あの子に優しすぎる」

「優しすぎて困ることがあるのなら、具体的にお聞かせください」

「いずれ君が、この家を去ることになった時、あの子が傷つく」


 手の中のナイフが、皿に触れて小さく鳴る。夫婦として何も始まっていないうちから、去る日の話をされるとは思わなかった。


「私は、去る前提でこの家に来たつもりはありません」

「責めているのではない。君は若い。子持ちの男に縛られる必要はない」

「そのお気遣いを、どう受け取ればよいのか分かりません」


 アルフレッド様は口を閉ざす。やはり、それ以上の言葉はなかった。



 その夜、ノエルが私の部屋へ来た。寝間着の裾を引きずり、枕を抱え、廊下の灯りの下で真っ青な顔をしていた。


「セシリアさま、すこしだけ、ここにいてもいいですか」

「もちろんです。怖い夢を見たのですか」

「おとうさまが、セシリアさまはいなくなるって」


 思わず言葉を失った。アルフレッド様の言葉を聞いてしまったのだろう。

 私は扉を大きく開け、ノエルを中へ招く。彼は遠慮がちに入ると、椅子ではなく、扉の近くに立ったまま動かなかった。


「ノエル様、こちらへどうぞ。そんな所に立っていては、足が冷えてしまいます」

「ここなら、すぐにもどれます。めいわくなら、すぐにもどります」

「迷惑ではありません。今夜はここで眠りましょう」

「でも、ぼくがいると、セシリアさまがねむれません」

「眠れなくなるほど、ノエル様の寝相は悪いのですか」


 ノエルは驚いた顔をした後、少しだけ笑った。初めて見る、年相応の笑顔だ。


「たぶん、わるくないです。たぶんですけど」

「では、確かめましょう。もし蹴られたら、明日の朝に苦情を申し上げます」

「くじょう……ぼく、あやまります」

「先に謝らなくてよろしいです。まだ蹴っていませんから」


 寝台に入ったノエルは、私の手を握る。小さな手は冷たく、眠るまで何度も指に力が入った。

 しばらくして、彼が寝息を立て始めても、私は手を離せない。離した瞬間、また不安そうな顔をさせてしまいそうだからだ。



 それから数日後、ローゼン侯爵家に前夫人の叔母であるオレリア・マルト伯爵夫人が訪れた。年配の貴婦人で、前夫人を娘のように可愛がっていたという。

 客間に通された彼女は、私を見るなり扇を少し上げた。笑みはあるが、その視線は冷たい。


「あなたが新しい奥方ね。思ったより若くて、ノエルが懐くのも分かりますわ」

「セシリア・ローゼンでございます。本日はお越しいただき、ありがとうございます」

「礼は結構よ。わたくしは、あの子の様子を見に来ただけですもの」


 ノエルは私の隣に座っていた。けれど、オレリア夫人が入ってきてから、ずっと膝の上で指を組んでいる。


「ノエル、こちらへいらっしゃい。あなたの本当のお母様の話をしてあげます」

「はい、オレリアおばさま」


 ノエルは立ち上がったが、歩き出す前に私を見る。私は頷いた。

 するとオレリア夫人が、扇を、ぱちりと鳴らす。


「まあ。許可を求める相手が違うのではなくて?」

「申し訳ありません。ノエル様を縛るつもりはございません」

「縛っている者ほど、そうおっしゃるのよ」


 誰もすぐには口を開かなかった。ノエルの肩が小さく跳ねる。

 そこへ、アルフレッド様が入ってくる。ローゼン侯爵としての黒い上着に身を包み、客間の入口で一礼する。


「オレリア夫人。遠路、ご苦労だった」

「アルフレッド様。ご子息の様子を案じて参りましたの。ですが、どうやら少し遅かったようですわ」

「どういう意味だ」

「ノエルが、後妻の顔色ばかり見ています。これは懐いているのではなく、依存させられている」


 ノエルが息を呑んだ。私は反射的に手を伸ばしかけたが、客人の前でそれをすると、オレリア夫人の言葉を強めるだけだと思い直す。

 アルフレッド様は、私ではなくノエルを見た。


「ノエル。お前は、セシリアに何か嫌なことをされたのか」

「ありません。セシリアさまは、ぼくにおかしをくれます」

「菓子で子供を釣るのは、よくある手ですわね」

「ちがいます。おかしだけじゃありません」


 ノエルの声が震える。けれど、彼は顔を上げた。


「こわいゆめを見たら、手をにぎってくれます。ぼくがこぼしても、おこりません。ぼくがないても、きらいになりません」


 客間にいる誰も言葉を続けなかった。オレリア夫人の表情が、わずかに歪んだ。


「それは、あなたのお母様ではなくても出来ることです」

「でも、してくれたのはセシリアさまです」


 ノエルの声は小さい。だが、その一言だけは譲らなかった。


「セシリア。少し、話がある」


 アルフレッド様は、長く黙っている。やがて私の方へ向き直り言う。



 廊下へ出ると、扉の向こうでノエルが呼ぶ声がした。振り返りそうになったが、またここで戻れば、オレリア夫人の思う壺だ。

 アルフレッド様は窓辺に立つ。昼の光を受けても、その横顔は硬い。


「君には負担をかけた」

「何をおっしゃりたいのですか」

「この家は、君に合わない。ノエルは君に懐きすぎた」

「懐きすぎた子供を、引き離すおつもりですか」

「このままでは、君もノエルも傷つく。オレリア夫人の言葉は不快だが、外からはそう見える」


 私は、彼の背中を見つめる。怒る気にもなれなかった。


「では、どうなさるおつもりですか」

「君が望むなら、離縁しても構わない。実家には十分な支援をする」


 呆れてものも言えなかった。私は金の話をしているのではない。あの小さな子供が、今日やっと自分の言葉で立ったばかりなのに。


「アルフレッド様は、いつもそうです。大切なものを守る話になると、先に手放す話をなさいます」

「失う苦しみを増やしたくないだけだ」

「もう増えています。今この瞬間にも、扉の向こうで増えています」


 アルフレッド様の表情が揺れた。彼も分かっているのだろう。

 扉が少し開く。ノエルが、青い顔で立っている。


「ぼく、また、すてられるのですか」


 その声を聞いた瞬間、私はもう何も考えられなかった。客人の目も、侯爵家の体面も、全部どうでもよい。


「ノエル様」

「ぼく、いいこにします。おかしもいりません。よるもひとりでねむります」

「違います。ノエル様が悪いわけではありません」

「じゃあ、どうして、セシリアさまはいなくなるのですか」


 答えられなかった。ここで残ると言えば、アルフレッド様の意思を踏みつけることになる。出て行くと言えば、ノエルを傷つける。

 アルフレッド様は、苦しげに目を伏せた。そんな顔をするくらいなら、最初から離縁など口にしなければいいのに。



 翌朝、私は荷をまとめた。離縁の話は正式には進んでいないが、このまま屋敷にいれば、ノエルは毎日怯える。

 ならば一度、私が距離を置くしかない。そう考えた時点で、自分が逃げていることも分かっていた。

 侍女のミラが、旅行鞄の留め具を閉じながら唇を噛んだ。彼女はローゼン家に長く仕える侍女で、ノエルを幼い頃から知っている。


「奥様、本当に出て行かれるのですか」

「少し実家に戻るだけです。ノエル様には、落ち着いてから手紙を書きます」

「坊ちゃまは、手紙では眠れません」

「……分かっています」


 分かっている。だから苦しかった。



 玄関前には馬車が用意されていた。アルフレッド様は来ない。来ない方がいいと思ったのに、胸のどこかで探してしまう自分が嫌だ。

 私は外套を羽織り、屋敷を振り返った。三か月しか暮らしていない家なのに、窓も廊下も階段も、もうノエルの姿と結びついている。

 馬車に乗り込もうとした時、中から小さな音がする。荷の間に置かれた毛布が、もぞりと動く。


「……ノエル様?」


 毛布の下から、ノエルが顔を出す。涙で目を赤くし、両腕で私の夜用のショールを抱えている。


「ぼくもいきます。セシリアさまのにもつになります」

「荷物になってはいけません。そんな所に隠れて、怪我をしたらどうするのですか」

「じゃあ、こどもになります。セシリアさまのこどもになります」


 言葉が出ない。ノエルは馬車の床に座ったまま、必死に私を見上げた。


「ぼく、ローゼンのこじゃなくてもいいです。おとうさまにいらないなら、セシリアさまのこになります」

「ノエル様、それは違います。お父様が、あなたをいらないはずがありません」

「でも、セシリアさまをいなくするなら、ぼくもいらないのとおなじです」


 馬車の外で、誰かが息を呑んだ。振り返ると、アルフレッド様が玄関に立っている。

 いつからいたのか分からない。だが、その顔は、初めて見るほど崩れていた。


「ノエル」

「こないでください。ぼく、セシリアさまといきます」

「お前を捨てるつもりなど、一度もない」

「じゃあ、どうしてセシリアさまをすてるのですか」


 アルフレッド様は、言葉を失う。

 私は馬車に乗り込み、ノエルを抱きしめた。彼の体は震えている。ショールを握る指も冷たい。


「ノエル様、聞いてください。私はあなたを荷物にしません」

「じゃあ、こどもにしてください」

「もう、私にとっては大切な子です。だからこそ、荷馬車に隠れて行くような真似はさせません」

「でも、ここにいたら、セシリアさまがいなくなります」


 ノエルが私の胸に顔を押しつけた。その瞬間、外から低い声が聞こえる。


「行かせない」


 アルフレッド様だ。彼は馬車の扉に手をかけ、こちらをまっすぐ見た。


「セシリア、行かないでくれ」


 たったそれだけの言葉。今まで聞いたことのない声で。


「アルフレッド様。私は、あなたに必要とされない場所へ居続けるほど強くありません」

「必要だ。ノエルに必要で、私にも必要だ」

「それなら、なぜ離縁などおっしゃったのですか」

「君を守るつもりだった。だが、守るという言葉を使いながら、私は逃げていた」


 アルフレッド様は、馬車の前で膝をつく。侯爵が使用人達の前で膝をつくなど、本来ならありえない。

 それでも彼は、ノエルの目線まで身を低くした。


「ノエル。お前をどう抱きしめればよいのか、ずっと分からなかった」

「ぼく、こわれません」

「そうだな。私は、お前が泣くことを怖がっていた。泣かせたら、もう取り返せないと思っていた」

「ぼく、ないても、セシリアさまがきらいになりません」

「私も、泣いたお前を嫌いになどならない」


 ノエルは、すぐには動かなかった。小さな肩が何度も震え、やがて、私の袖を掴んだまま父親へ手を伸ばす。

 アルフレッド様は、その手を両手で包んだ。大人の手に包まれると、ノエルの指は驚くほど小さく見えた。


「おとうさま、セシリアさまをいなくしませんか」

「しない。私が間違っていた」

「おかあさまって、よんでもいいですか」


 その言葉は、私に向けられている。息が止まるかと思った。

 胸の中で、何かが溢れそうになる。けれど泣いたら、ノエルがまた心配してしまう。


「ノエル様が、そう呼びたい時だけで構いません」

「いま、よびたいです」

「はい」

「おかあさま」


 返事をしようとしても声が出なかった。私はノエルを抱きしめたまま、何度も頷く。

 アルフレッド様が、私に向き直る。


「セシリア。君が許してくれるなら、もう一度、夫としてやり直したい」

「夫としての最初の務めは、離縁の話を二度と子供に聞かせないことです」

「誓う」

「次に、ノエル様と毎週一度は一緒に夕食を取ってください。菓子の量より、その方がずっと大事です」

「毎週では足りない。できる限り、毎日戻る」

「できる限り、という言葉は便利すぎます」


 アルフレッド様は、少しだけ目を開いた。ノエルが私の腕の中で、小さく笑う。


「では、三日に一度は必ず戻る。戻れない時は、ノエルに手紙を書く」

「私にも、ではありませんか」


 言ってから、自分で驚く。そんな言葉を口にするつもりはなかった。

 アルフレッド様の耳が、わずかに赤くなった。


「君にも書く。毎回、必ず」


 ノエルが、私とアルフレッド様の手をそれぞれ掴んだ。ノエルは私達の手を離そうとしなかった。



 オレリア夫人は、その日のうちに屋敷を去る。去り際に不満を言いかけたが、アルフレッド様が「我が家のことは我が家で決める」と告げると、扇を鳴らして馬車に乗った。

 その夜、ローゼン侯爵家の食卓には三人分の席が用意された。これまでは端と端に離れていた私とアルフレッド様の席も、ノエルを挟む形で近づけられている。


「おとうさま、きょうはセシリアさまと、いっしょにねむってもいいですか」

「毎晩では困る。だが、今日は仕方ない」

「おとうさまも、きますか」


 アルフレッド様が、肉を切る手を止める。私は思わず飲んでいた水を吹き出しそうになった。


「ノエル。それは、少し早い話だ」

「どうしてですか。みんなでねたら、だれもいなくなりません」

「……そういう問題ではない」

「おとうさま、かおがあかいです」


 ノエルは不思議そうに首を傾げる。アルフレッド様は咳払いをし、私は笑いをこらえるためにナプキンを口元へ当てた。



 食後、ノエルは当然のように私の部屋へ枕を持ってきた。アルフレッド様も扉の前まで来たが、中には入らず、ぎこちなく立っている。


「ノエル。寝る前に一つだけ、父と約束してくれ」

「はい。いいこにします」

「いい子でなくていい。ただ、怖い時は怖いと言いなさい。寂しい時は寂しいと言いなさい」


 ノエルは、何度も瞬きをする。すぐには返事をしなかった。


「おとうさまに、いってもいいのですか」

「言ってくれ。すぐ上手にはできないが、聞くことから始める」

「じゃあ、いま、だっこしてください」


 アルフレッド様は、動きを止めた。だが次の瞬間、恐る恐るノエルを抱き上げる。

 ノエルは父親の首に腕を回した。アルフレッド様の表情が、困ったように歪む。


「おとうさま、へたです」

「……すまない」

「でも、あったかいです」


 その言葉で、アルフレッド様は言葉を失った。ノエルを抱く腕に、少しだけ力がこもる。

 私は寝台の端に腰を下ろし、その光景を見ている。三か月前、この家に来た時、こんな夜が来るとは思わなかった。


「セシリア」

「はい」

「君が来てくれて、よかった」


 短い言葉だ。けれど今度は、逃げるための言葉ではなかった。


「私も、ここへ来てよかったと思っています」

「それなら、明日の朝もいてくれるか」

「明日の朝だけですか」

「明後日も、その次も。できれば、ずっと」


 ノエルが、父親の腕の中で顔を上げる。


「ずっとがいいです。おかあさま、ずっといてください」


 私は二人を見る。まだ夫婦として始まったばかりで、家族としても不器用なままだ。

 けれど、ノエルが笑っている。その顔を見ているだけで満足だった。


「はい。ずっと一緒にいます」


 その夜、ノエルは私の隣で眠った。アルフレッド様は扉の外でしばらく迷っていたが、最後には「おやすみ」とだけ言って、自分の部屋へ戻っていく。



 けれど翌朝、朝食の席に彼はいた。ぎこちない手つきでノエルの皿にパンを置き、私のカップに茶を注いだ。


「おとうさま、パンが大きいです」

「切ろう」

「セシリアさま、じゃなくて、おかあさまのも、きってあげてください」

「ノエル様、私は自分で切れます」

「おとうさまが、やりたいかもしれません」


 アルフレッド様がこちらを見る。私は少し迷ってから、皿を差し出した。

「では、お願いしてもよろしいですか」

「ああ。喜んで」


 切られたパンは、少し不揃いだった。けれどノエルは、それを宝物でも見るように眺める。


「きょうのごはんは、みんなでつくったみたいです」

「ノエル様は食べる係ですね」

「はい。たくさんたべます。おおきくなったら、おかあさまをだっこします」

「それは楽しみです」

「おとうさまも、だっこします」

「私は遠慮したい」

「だめです。かぞくは、じゅんばんです」


 アルフレッド様が、今度は本当に笑った。ぎこちなくて、短い笑みだったが、ノエルは目を丸くした後、ぱっと顔を輝かせる。


「おとうさま、いま、わらいました」

「珍しいものを見たな」

「また見たいです」

「努力する」


 その朝、私は初めて、ローゼン侯爵家の食卓を温かいと思った。

 離縁のためにまとめた荷は、まだ部屋の隅に置かれている。けれど、それをほどく時間はたっぷりある。

 ノエルが私の袖を引く。


「おかあさま、きょうもお茶をしますか」

「ええ。アップルパイを頼みましょう」

「おとうさまも、きますか」


 アルフレッド様は、少しだけ考える。それから、真面目な顔で頷いた。


「行く。菓子の量を確認しなければならない」

「おとうさま、それは、いっしょにたべたいって言うのです」

「……一緒に食べたい」


 ノエルが笑う。私も笑った。

 この家には、まだ足りないものが多い。けれど、朝の光の中で三人分の茶器が並ぶところを想像した時、もう出て行こうとは思わなかった。



完。

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