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喫茶 がんばり屋さん

作者: 水泡歌
掲載日:2026/04/03

「はあ……」

 会社からの帰り道。

 とぼとぼ歩きながら私は深くため息を吐いた。

 今日の仕事も散々だった。

 次から次へと増え続ける仕事。

 優先順位を考えて組み立てては崩されるの繰り返し。

 仕方ないので無心で目の前の仕事を片付けていると、そう言う時に限って私宛ての電話がいくつもいくつも掛かってくる。

 集中して一気に終わらせたいのにブツブツブツブツ途切れる作業に精神的にも限界を迎え、女子トイレの洗面所で蹲ってしまった。

 時計を見ながら10分だけと時間を決めて席に戻れば、さっきはなかったはずの注文書や電話の折り返しを求めるメモがたくさん置いてあって。

 思ってしまった。

 あと何を削ればいいんだろう、と。

 あと私の何を削れば解決するんだろう、と。


 ぐ〜。

 歩いていると盛大にお腹が鳴った。

 時刻は夜20時。

 今から帰って料理をするのもスーパーでお惣菜を買うのも面倒くさい。この時間帯だったら、どうせろくなものは残っていないだろう。

 どこかで食べて帰ろうかな……。

 キョロキョロと見回す。

 ここら辺ってあんまりお店ないんだよなあ。

 電車に乗って1駅行けばあるけど、そこまでするのも──と思ったところで思考が中断する。

 目に入ったもの。

 木造の昔ながらの喫茶店。

 ほんわりと明かりが灯ったそこには「喫茶 がんばり屋さん」と書かれていた。

 こんなお店、あったっけ?

 不思議に思いながら、あたたかな光に吸い寄せられるように私はお店へと入って行った。


 扉を押すとドアベルが鳴る。

 小さなカウンター。2人掛けのビロードのソファーに丸テーブル。

 レトロな雰囲気に見惚れていると声がした。

「いらっしゃいませ」

 夜色のロングワンピースに白い前掛けエプロン。お団子頭のおばあさんがニコニコ笑顔で私の前に立っていた。

「あ、1人いけますか」

 右手の人差し指をたてて訊ねるとおばあさんはジッと私を見た。

 え、ダメなのかな? もしかして、もう営業時間終了とか?

 焦っているとおばあさんは言った。

「おやおや、まあまあ、これはこれは。あなた、とってもがんばり屋さんね」

「がんばり屋さん、ですか?」

 予想外の言葉にキョトンとしてしまう。

「ええ、ええ、そうですよ、こんなにがんばり屋さんはなかなかいませんよ。これは大変。すぐ用意をしますからね。さあ、そちらにお掛けになって?」

「あ、ありがとうございます」

 荷物入れに鞄を入れて、ビロードの2人掛けのソファーに腰掛ける。

 座った途端、それは心地よく沈んだ。

 おお、ふかふか……。

 感動しているとおばあさんが手を叩く。

「さやかさん、みちろうくん」

 そう言うとチリンと言う鈴の音が聴こえた。

 音の方向を見るといつの間にか私の右の足元に一匹の猫が座っていた。

 ロシアンブルー。

 エメラルドグリーンの瞳にブルーグレーの毛並み。

 小さな鈴がついた赤い首輪。

 とても美しい猫だった。

 わあ……。

 思わず顔が綻ぶ。

 色で判断してはいけないのかもしれないけれど、

「さやかさん、ですか?」

 そう言うと「にゃ〜」と返事をするように鳴いた。

 かわいい!

 次は左の太ももに柔らかい感覚。

 ん?

 見ると私の足に満面の笑顔で飛びついている子がいる。

 マルチーズ。

 白い毛並み、青いリボンで結ばれた前髪がふわふわ揺れている。

 もしや、あなたは?

「みちろうくん?」

「ワン!」

 いいお返事!

 突然現れた天国に悶えているとおばあさんに言われる。

「お待ちの間、さやかさんとみちろうくんがお相手しますからね。少々お待ちくださいね」

 そう言ってお店の奥へと歩き出す。

 えっと、待ち時間は24時間ほどでしょうか。このような状態ならいくらでも待てますが。

 さてさて、では、

 太ももにあたる柔らかな肉球の感触も捨てがたい。捨てがたいのですが、

「みちろうくん、抱っこしてもよろしいでしょうか」

 お伺いを立てると「もちろんです!」と言う顔をされる。

 そっと抱き上げる。

 あったかい。

 膝の上に乗せるとお行儀良くちょこんと座ってくれる。

 後ろからぎゅっと抱きしめる。

 ふわ〜、しあわせ〜。

 浸っていると足元をちょいちょいとされる。

 見るとさやかさんが「おや、私はよろしいので?」と言う顔でこちらをジッと見ていた。

「さやかさんもよろしいでしょうか」

 真剣な顔でお答えすると「にまっ」と笑ってソファーに華麗に飛び乗った。

 そのまま私の右横にぴとっとくっついてすりすりしてくれる。

 ありがとうございます!

 膝にみちろうくんが座り、右手でさやかさんの極上の毛並みを撫でる。

 なんと言う癒し空間。

 もう、ずっとこのままでいい……。

 そんなことを思いながら、どれぐらい時間が経ったのだろう。

「お待たせいたしました」

 声にハッとして見上げる。

 そこには銀のトレイを持ったおばあさんが立っていた。

 鼻腔をくすぐるいいかおり。

 このにおいは──

 テーブルの上に料理が置かれる。

「当店特製、とろけるオムライスです」

 まっしろなお皿にのったとろっとろのケチャップオムライス。

「おいしそう……」

 思わず、声が漏れる。

 おばあさんは得意げに微笑む。

「どうぞ、召し上がれ」

 みちろうくんが「ここからはお料理の時間ですね」と言うように私の膝から降りる。

 でも、私のそばにはいてくれる。

 右側にはさやかさん、左側にはみちろうくん。

 癒し空間はそのままだ。

 思わず出そうになるよだれを抑えて、両手を合わせる。

「いただきます」

 銀色のスプーンですくって、ぱくり。

「ん〜!」

 口の中に入れた途端にとろける卵。そして、絶妙な酸味とまろやかさを感じるハム入りのケチャップライス。

 これ、世界一のコラボレーションでは?

 夢中になって食べる。

 おいしい。

 おいしい。

 あっという間になくなってしまう。

 ああ、終わっちゃった……。

 からっぽのお皿にさびしくなる。

 でも、満足感がすごい。

 お腹も心もぽっかぽかに満たされていた。

「ごちそうさまでした」

「お済みのお皿、おさげしますね」

 手を合わせるとおばあさんがお皿を片付けてくれる。

「ありがとうございます。とってもおいしかったです」

 心からの感謝を贈るとおばあさんがにっこり笑う。

「では、デザートをお持ちしますね」

 デザートですと?

 まだこれ以上があることにびっくりしながら満腹だったお腹は急速にスペースを開ける。

「当店自慢の焼き立てのスコーンと紅茶になります」

 そう言って持ってきてくれたのはこんがりと焼けたあたたかなスコーンが2つ。その横にはクリームと赤いジャム。そして、まっ白なティーポットとティーカップ。

「一杯目、お注ぎしますね」

 おばあさんがそう言うと飴色の輝きが注がれる。同時に品のいいかおりが漂ってくる。

「ごゆっくり」

 おばあさんがのんびりとそう言って席を離れていく。

 私はお手拭きで手を拭くとワクワクとした気持ちでスコーンを手に取る。

 ふたつに割るとほわりと湯気がたつ。

 クリーム、えっと、クロテッドクリームだっけ、たっぷりつけて食べる。

「ふふふ……」

 こぼれる笑み。

 コクがあって濃厚で、こんなのいくらでも食べられちゃうよ。

 ティーカップを手に取る。テーブルに置かれた角砂糖をひとつだけ入れてスプーンでくるくる。

 両手で持ってこくり。

「はあ……」

 身体の中がほわほわする。

 あったかい。

 思えば、こんな風にゆっくりお茶なんて全然出来ていなかった。

 職場ではあったかい飲み物を入れてもバタバタしているうちにいつの間にか冷めてしまう。

 なんだか悲しくなるから最近は入れることさえやめてしまった。

 さてさて、こっちは?

 次は赤いジャムに手をつける。

 スコーンにつけてパクリ。

 ん〜! すっぱさと甘さが絶妙のいちごジャム!

 こっちも大好き!

 ふと視線を感じて見れば、みちろうくんとさやかさんがジッとこちらを見ていた。

「みちろうくん、さやかさん、こんなに幸せなことがあってもいいんでしょうか」

 訊ねるとどちらも全てを受け入れるようにニコッと笑ってくれた。


「ごちそうさまでした!」

 ゆっくりと全てを味わってデザートが終わった。

 見守っていたおばあさんが近付いてくる。

「当店のお料理、ご満足いただけましたでしょうか」

 私は全力で答える。

「大満足です! もうこれ以上ないってほど大満足です!」

「ありがとうございます」

 おばあさんは嬉しそうに笑ってくれる。

 私は気付く。

「あ、まだお会計の紙、もらってませんでしたよね。おいくらですか?」

 こんなに素敵なおもてなしを受けたのだ。きっと、なかなかのお値段にちがいない。

 すると、おばあさんは不思議そうな顔をした。

「あら、お代ならすでにいただいておりますよ」

 すでに?

 いや、そんなはずはない。だって、まだ1円もお支払いしていないのだから。

「いやいや、いけませんよ、そんな優しい嘘は。これだけのものをいただいたのだからちゃんとお支払いします」

「いえいえ、ですから、もういただいておりますよ、ほら」

 そう言っておばあさんが前掛けエプロンから何かを取り出す。

 それは透明なひとつのガラス玉だった。

 ビー玉?

 いや違う、中で何かが揺れている。

「これは?」

 ガラス玉を覗き込む。

 青と赤の光が拙く懸命にガラス玉の中を漂っている。

 綺麗……。でも、なぜだろう。なんだかとっても──

 ペロリ。

 頬を舐める感触がする。

 見るとみちろうくんが私の左頬を舐めていた。

「あれ?」

 私は頬に手をやる。

 ポロポロと瞳からあふれてくるもの。

 なんで……。

 ペロリ。

 次は右頬。

 今度は少しざらりとしている。

 さやかさんだ。

 どうして?

 どうしてこんなに胸が締め付けられるんだろう……。

 優しい優しい声でおばあさんが言う。

「これはあなたの「がんばり」です。とっても綺麗でしょう?」

 そう言って掌にのせてくれたガラス玉はあったかくて。

 とてもとても愛しかった。


 名残惜しい気持ちで帰る用意をする。

 おばあさん。そしてその両端にはみちろうくんとさやかさんがちょこんと座ってお見送りしてくれる。

「あの、また来てもいいですか? そのためにも私、もっとがんばりますので」

 そう言うとおばあさんはびっくりした顔をした。

「おやおや、まあまあ、もっとなんていけませんよ。あなたはこんなにもがんばっているんですから。「もっと」は自分を大切にする方ですよ」

「自分を大切に?」

 おばあさんは頷く。

「そうですよ。あなたは今のあなたのままで十分。むしろ、がんばりすぎなくらいです。また疲れたらいつでもいらっしゃい。私たちはここで待っていますからね」

「……ありがとうございます」

 言葉を噛み締めながらお店を出る。

「本日のご来店、ありがとございました」

 おばあさんがそう言って頭を下げるとみちろうくんとさやかさんもいっしょにぺこりとおじぎをしてくれた。 


「はあ……」

 お店を出てひとつしあわせなため息を吐く。

 疲れ切っていた心も身体もぽかぽかだ。

 随分ゆっくりしてしまったけれど、時間は大丈夫かな。

 腕時計をチラリと見た私は思わず「え」と声が出てしまう。

 時刻は20時。

 お店に入った時間と全く変わっていなかった。

 時計が壊れている?

 いや、ちがう。携帯電話の時間もこの時間だ。

 お店を振り返る。

 自分のために使える時間。

 これはお土産だろうか?

 私は深々とお店に向かって頭を下げると足取り軽く家へと帰る。

 この後、何をしようか。久しぶりにゆっくりお風呂に入ろうか。好きな音楽に浸ろうか。

 おばあさんが掌にのせてくれた私のがんばり。

 拙くて懸命で、そしてとても愛しかったあの子を思い出す。

 眠るまでのわずかな時間かもしれない。

 でも、今はその時間で私を大切にしたい。

 そんな気持ちでいっぱいだった。

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