第5話 転生したら 錆びた鍵だった
この物語を手に取ってくださり、ありがとうございます。
ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
転生の果てシリーズは、転生の果てⅥで終了になります。
ここまで読んで頂いたこと感謝します。
ありがとうございます。
――約束の時間は、午後七時。
「 」は、ポケットの中に在る。
金属の冷たさ。
わずかな重み。
歩く振動が、伝わってくる。
駅からの道。
街灯が、規則正しく並んでいる。
急ぐ足音。
時計を見る仕草。
「……間に合う」
呟き。
あと十分で、約束の時間。
アパートまで、あと三分。
「 」は、握られる。
ポケットから取り出される。
街灯の光を受けて、表面が鈍く光る。
だが――
その光は、完全ではない。
ところどころに、茶色い染みがある。
錆び。
わずかな、腐食の痕跡。
気づかれないまま、進行していた変化。
アパートに、到着する。
古い建物。
二階建て。
外階段を上がる足音。
「202号室」
ドアの前に、立つ。
「 」が、鍵穴に向けられる。
差し込まれる。
金属と金属が、触れ合う。
――だが。
回らない。
「……ん?」
手に、力を込める。
もう一度、回そうとする。
ギシ、と。
小さな抵抗。
だが、開かない。
「 」は、鍵穴の中で止まっている。
錆びた部分が、引っかかっている。
内部の機構が、スムーズに動かない。
「おかしいな……」
呟きながら、「 」を一度抜く。
見つめる。
茶色い染み。
「……錆びてる?」
指で、表面を拭う。
だが、錆びは取れない。
金属の内部まで、浸食している。
もう一度、差し込む。
回す。
――やはり、固い。
力を込める。
だが、無理に回せば――折れるかもしれない。
時計を見る。
七時二分前。
「くそ……」
汗が、滲む。
もう一度、慎重に回してみる。
ゆっくりと。
少しずつ。
――カチ、と。
わずかに動いた。
だが、そこで止まる。
完全には、回らない。
半分ほどのところで、引っかかる。
「 」の内部構造と、鍵穴の内部。
錆びが、両方の動きを妨げている。
「開いて……」
祈るような声。
手が、震える。
力加減が、分からなくなる。
強すぎれば、折れる。
弱すぎれば、開かない。
時間だけが、過ぎていく。
七時。
約束の時間に、なった。
部屋の中で――
待っている人がいる。
初めて会う、大切な人。
遠方から、わざわざ来てくれた。
この部屋で、話をする約束だった。
だが。
「 」が、開かない。
中の人は――
気づいているだろうか。
ドアの向こうで、鍵が回らずに苦戦していることを。
いや。
何も聞こえないだろう。
古い建物の、厚いドア。
外の音は、ほとんど伝わらない。
ノックをする。
コン、コン、コン。
「すみません、ちょっと鍵が……」
声をかける。
だが――
中から、返事がない。
もう一度、ノックする。
強く。
コンコンコン。
「すみません!」
やはり、返事がない。
もしかして――
聞こえていないのか。
それとも。
いや。
部屋にいるはずだ。
約束の時間なのだから。
「 」を、もう一度回そうとする。
だが、やはり固い。
無理に力を入れる。
ギギ……
金属が軋む音。
「 」の表面に、指が食い込む。
痛い。
だが、開かない。
時計を見る。
七時五分。
既に、遅れている。
焦りが、募る。
「開いて、開いてくれ……」
何度も、回そうとする。
だが、結果は同じ。
半分までは動くが、そこから先に進まない。
錆びが――
たった数ミリの、腐食が。
全てを止めている。
「 」は、それを感じている。
回らないことで、時間が固定されていくのを。
扉の向こうで――
何が起きているのか。
中の人は、今。
どんな表情をしているのか。
待っているのか。
諦めているのか。
それとも――
怒っているのか。
「 」には、分からない。
ただ、鍵穴の中で。
動けないまま。
時間が、過ぎていく。
十分。
十五分。
二十分。
何度も、回そうとする。
何度も、失敗する。
指が、痛くなる。
掌が、汗で滑る。
「 」の表面が、湿っていく。
やがて――
中から、音がした。
足音。
近づいてくる。
ドアの向こう側。
「……いないのかな」
小さな声が、聞こえた。
「いますっ! います!」
慌てて、叫ぶ。
「鍵が、開かなくて……」
「え?」
驚いた声。
「今、開けます」
中から、ドアノブが回される。
――だが。
内側から開けることも、できない。
「 」が、中途半端な位置で止まっているから。
完全にロックされているわけでもなく。
完全に解除されているわけでもなく。
「……開かないです」
中からの声。
「すみません、鍵が錆びてて……」
「錆び?」
少しの沈黙。
「……どうしましょう」
困惑した声。
「ちょっと待ってください、今、何とかします」
「 」を、一度抜く。
ポケットから、ハンカチを取り出す。
「 」の表面を、拭く。
錆びを、少しでも取り除こうとする。
だが――
表面の錆びは取れても、内部までは届かない。
もう一度、差し込む。
回す。
――やはり、同じ。
半分まで。
そこで、止まる。
「……ダメだ」
呟き。
どうすればいい。
管理会社に連絡するか。
だが、今は夜。
すぐに来てくれるだろうか。
鍵屋を呼ぶか。
だが、時間がかかる。
お金も、かかる。
そして――
待たせている人が、いる。
「あの……」
中からの声。
「もう、今日は……」
「え?」
「帰ります」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「待っても、開かないですよね」
「今、何とかしますから」
「……もう、いいです」
諦めた声。
「遠くから来たのに、こんなことで……」
「すみません、すみません」
謝る。
だが――
中の人は、もう聞いていないようだった。
足音が、遠ざかる。
部屋の奥へ。
「待って……」
小さく、呟く。
だが、届かない。
「 」を、握りしめる。
冷たい金属。
錆びた、表面。
この小さな腐食が――
全てを壊した。
やがて。
中から、また足音が近づいてくる。
「窓から、出ます」
「え?」
「一階に、降ります」
「危ないですよ!」
「大丈夫です」
窓が開く音。
何かを動かす音。
「……あの、本当にすみません」
「いえ」
冷たい返事。
「もう、いいです」
何かが、窓から降りる気配。
慌てて、階段を降りる。
建物の裏側に回る。
窓から――
人が、降りてきていた。
地面に、着地する。
「大丈夫ですか!?」
駆け寄る。
だが――
相手は、顔を上げない。
「……帰ります」
「待ってください、これから――」
「もういいです」
遮られる。
「今日のこと、忘れてください」
「そんな……」
「さようなら」
背を向けられる。
歩き出す。
「待って……」
手を伸ばす。
だが、届かない。
立ち尽くす。
去っていく背中を、見送るしかできない。
「 」は、まだ手の中に在る。
握られたまま。
錆びたまま。
開かなかった、証拠として。
時間が――
止まっている。
約束の時間は、過ぎた。
だが、会うことは、できなかった。
鍵が開かなかった。
ただ、それだけで。
全てが、終わった。
「 」は、理解している。
回らないことで、時間が固定されたことを。
扉より先に、関係が閉じたことを。
やがて――
アパートに戻る。
部屋の前。
「 」を、もう一度差し込む。
今度は――
なぜか、あっさりと回った。
カチャ、と。
開く音。
ドアが、開く。
中に入る。
電気をつける。
空の部屋。
窓が、開いたまま。
椅子が、窓の下に置かれている。
降りるために、使ったもの。
テーブルの上には――
小さな箱が、置かれていた。
手土産。
開けられていない。
渡すつもりだった、贈り物。
それだけが、残されている。
「 」を、見つめる。
錆びた、鍵。
もっと早く、気づいていれば。
錆びを、取り除いていれば。
新しい鍵に、変えていれば。
だが――
遅い。
全て、遅すぎた。
「 」は、鍵掛けに置かれる。
もう、使われることはないかもしれない。
錆びは、進行し続ける。
次に使う時には、もっと回らなくなっているだろう。
やがて――
完全に、機能を失うだろう。
部屋に、静寂が満ちる。
窓から、夜風が入ってくる。
冷たい空気。
「 」は、そこに在る。
錆びた姿のまま。
失われた機会と共に。
ただ、静かに。
(了)




