第1話 転生したら 折れたシャープペンだった
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ほんのひとときでも、あなたの心に何かが残れば幸いです。
どうぞ、ゆっくりと物語の世界へ。
転生の果てシリーズは、転生の果てⅥで終了になります。
ここまで読んで頂いたこと感謝します。
ありがとうございます。
――試験開始五分前。
教室に、緊張が満ちている。
机の上には解答用紙と、受験番号を記した小さなカード。窓から差し込む光が、白い紙面を照らしていた。
「 」は、右手に握られている。
握る力は、わずかに震えていた。
指先から伝わる体温。掌の湿り気。ノックされるたび、芯が数ミリ押し出される感覚。
繰り返される、確認の動作。
カチ、カチ、カチ。
音が、静寂を刻む。
周囲の生徒たちも同じように、筆記具を触り、消しゴムの位置を直し、深呼吸を繰り返している。
試験監督が教壇に立つ。
時計の秒針が、規則正しく進んでいく。
「 」は、ただそこに在る。
使われることを、待っている。
この手に握られ、紙に触れ、文字を刻むことを。それ以外の役割を、知らない。
やがて、合図の声が響いた。
「始めてください」
ページをめくる音が、一斉に起こる。
「 」は、解答用紙の上に降ろされた。
最初の一文字。
筆圧が、紙に伝わる。
黒い線が引かれ、文字が形を成していく。滑らかな感触。途切れることのない、流れ。
問題文を読む視線。
思考が言葉になり、言葉が文字になる。
「 」は、その過程を支えている。
握られる力が強まり、また緩む。
書く速度が上がり、ときに止まる。考える時間。迷う瞬間。それでも、再び動き出す手。
三問目に差し掛かったとき。
ノックが、一度押された。
芯が、出る。
だが――次の瞬間、硬い何かに触れた感覚があった。
紙の表面。
わずかな凹凸。
そして。
ポキッ。
小さな音が、した。
「 」の中で、芯が折れた。
先端が、紙の上に黒い点を残して転がる。
握る手が、一瞬止まる。
「……あれ?」
囁くような声。
ノックが、もう一度押される。
カチ。
だが、芯は出ない。
カチ、カチ、カチ。
何度押しても、同じ。
芯は引っ込んだまま、二度と姿を現さない。
「 」は、ただ握られている。
動かない。
書けない。
役に立たない。
時間だけが、進んでいく。
周囲の音が、やけに大きく聞こえる。
鉛筆が紙を走る音。ページをめくる音。誰かの小さな溜息。
「 」を握る手が、焦りを帯び始める。
筆圧が強まる。
何度もノックを繰り返す指。だが、芯は出ない。当然だ。折れているのだから。
視線が周囲を泳ぐ。
誰かに借りるべきか。
だが、試験中に声をかけることは――できない。
手が、筆箱に伸びる。
中を探る音。
カサカサと、何かを掻き回す感触。
だが。
替えの筆記具が、ない。
普段は使わない筆箱。
試験用に持ってきた、小さな布製のケース。中には消しゴムと定規だけ。
シャープペンは、「 」だけだった。
手が、再び「 」を握る。
もう一度、ノックを試みる。
カチ、カチ、カチ、カチ。
無駄な動作。
無意味な繰り返し。
それでも、止められない。
「 」は、その焦りを受け止めている。
指の震え。
掌の汗。
呼吸が浅くなっていく気配。
周囲の生徒は、次々と問題を解いている。
ペンを走らせる音が、途切れることなく続いている。
だが、この席だけが。
止まっている。
時計の針が、容赦なく進む。
試験開始から、十分が経過していた。
解答欄は、三問目の途中で止まったまま。
「 」を握る手が、力を込める。
もう一度。
もう一度だけ。
カチ。
芯は、出ない。
「……くそ」
小さく、呟かれた言葉。
手が、「 」を置く。
いや――投げ出すように、机の上に転がした。
「 」は、そこに横たわる。
動かない物体として。
役割を果たせなかった、ただの筒として。
視線が、問題用紙に戻る。
だが、筆記具がない。
書けない。
進めない。
手が、頭を抱える。
思考が、空回りを始める。
解答は頭の中にあるのに、それを形にする手段がない。
時間が、削られていく。
十五分。
二十分。
三十分。
他の生徒たちは、半分以上の問題を終えている。
ページをめくる音が、何度も響く。
「 」は、机の端に転がったまま。
誰にも触れられず。
誰の役にも立たず。
ただ、そこに在るだけ。
やがて、決断が下された。
手が、消しゴムに伸びる。
その横に置かれていた、替え芯のケース。
開ける。
中から、細い芯が一本取り出される。
指先で摘まれた、黒い線。
「 」が、再び手に取られる。
後部を外し、中に芯を入れる動作。
だが――手が震えている。
芯が、床に落ちる。
小さな音。
転がっていく、細い線。
「……」
息を吐く音。
もう一度、ケースから芯を取り出す。
今度は慎重に。ゆっくりと。
「 」の中に、芯が収まる。
ノックが、押される。
カチ。
芯が、出た。
書ける。
手が、解答用紙に向かう。
だが――
試験開始から、四十分が経過していた。
残り時間は、二十分。
解けていない問題は、七割以上。
ペンが、紙に触れる。
急いで書かれる文字。
雑な線。乱れた文字列。
思考が、追いつかない。
焦りが、判断を鈍らせる。
読み飛ばす問題文。勘で埋める解答欄。
本来なら解けたはずの問題を、見落とす。
本来なら選べたはずの選択肢を、誤る。
「 」は、その全てを記録している。
間違った答えを。
空白のままの欄を。
諦めの痕跡を。
やがて、終了の合図が響いた。
「そこまで」
ペンを置く音が、一斉に起こる。
「 」も、解答用紙の上に置かれた。
周囲の生徒たちが、安堵の息を吐いている。
誰かが「できた」と呟き、誰かが首を振っている。
だが、この席の主は。
頭を抱えたまま、動かない。
解答用紙が、回収されていく。
試験監督が机の間を歩き、一枚ずつ受け取っていく。空白の多い、その紙も。
「 」は、机の上に残された。
誰も拾わない。
誰も触れない。
教室が、少しずつ空になっていく。
生徒たちが席を立ち、廊下へ出ていく。
話し声が遠ざかり、やがて静寂が戻る。
「 」は、そこに在る。
窓からの光を受けながら。
誰にも必要とされず。
机の上に、ひとり。
やがて、夕方の清掃時間。
掃除当番の生徒が教室に入ってくる。
机を拭き、床を掃く。
忘れ物がないか、確認する視線。
「 」が、見つけられる。
「……シャーペンだ」
手に取られる。
ノックが、試される。
カチ、カチ。
芯が出る。
問題なく、動く。
「誰のだろ」
呟きながら、教卓の忘れ物箱に入れられた。
「 」は、箱の中で他の忘れ物と一緒に横たわる。
消しゴム。
定規。
名前のないノート。
誰も取りに来ないかもしれない、物たち。
窓の外で、夕日が沈んでいく。
教室に、静寂が満ちる。
「 」は、ただそこに在る。
折れた芯の記憶と共に。
変えてしまった結果と共に。
ただ、静かに。
(了)




