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終章:最期の手紙 (手術から約5年後)

声帯の全摘出手術から、5年という月日が経とうとしていた。それは、医師から告げられた「5年生存率」という、一つの大きな壁だった。彩音の成長だけを心の支えに、静香は壮絶な治療によく耐えた。しかし、運命はあまりにも非情だった。あと少しでその壁を越えられるという時、がんは全身に転移していた。


もう、なすすべはなかった。日に日に意識が混濁する時間が増え、静香の世界は、現実と夢の狭間を静かに行き来するようになっていた。窓の外の空の色さえ、もう彼女の瞳には映っていないのかもしれない。浩一は、やせ細ってしまった静香の手を握りしめ、ただそばにいることしかできなかった。


ある日の午後、ふと静香の意識が澄明になった瞬間があった。浩一は、ずっと胸の内にあった問いを、今こそ伝えなければいけないと感じた。

「静香……もう、いいんじゃないか。恵さんや、順子さんに、知らせなくていいのか」長い間、彼女のわがままを守り、友人たちに嘘をつき続けてきた。だが、このまま永遠の別れを迎えることになれば、それはあまりにも酷すぎる。


静香は、浩一の言葉にゆっくりと瞬きをした。そして、か細い、最後の力を振り絞るように、枕元に置かれたホワイトボードを指差す。浩一がペンを握らせると、彼女は震える手で、一文字、また一文字と、消え入りそうな線で綴った。


『ひきだしのテガミ 死んだらワタシテ』


それが、彼女の最後の願いだった。その日の夜、嵐が過ぎ去った後のように、静香は眠るように穏やかな顔で、静かに息を引き取った。浩一が握るその手から、ゆっくりと温もりが消えていく。声なき嗚咽が、がらんとした病室に虚しく響いた。


自宅に戻り、静香がいつも大切にしていた古い木製の机の引き出しを開ける。そこには、彼女の残り香が染み付いた数通の手紙が、静かにその時を待っていた。


浩一へ

浩一へ 長い間、本当に長い間、私のわがままに付き合わせてごめんなさい。 あの町に帰ると、楽しかった高校時代の思い出まで、今の惨めな私で汚してしまいそうで……どうしても帰れませんでした。あなたとの未来だけが、私の全てでした。 ありがとう。あなたがいなければ、私はとっくに壊れていました。 彩音をよろしくね。できることなら、あの子を湊高校へ行かせてあげてください。私の見られなかった青春の続きを、あの子に見てほしいから。


浩一の御両親へ

お父様、お母様 もうすぐ、私のわがままも終わります。 あの日、ボロボロだった私を何も聞かずに受け入れてくださったご恩は、最期の時まで忘れません。それなのに、大切な浩一さんを独り占めしてしまって、本当に、本当に申し訳ございませんでした。 これからは、浩一さんと彩音のことを、どうぞよろしくお願いいたします。 短い間でしたが、本当の娘のように思ってくださって、ありがとうございました。


彩音へ

愛する彩音へ ママは、空の上から、あなたの成長をずっと見守っています。 いつもそばにいられなくて、ごめんね。 あなたは、ママの命であり、希望でした。あなたに会うためだけに、ママは生まれてきたんだと思います。 最期に一つだけ、神様にお願いが叶うなら、もう一度だけでいいから、あなたの名前を呼んであげたかった。 もう一度だけでいいから、あなたに、歌を歌ってあげたかったな。


手紙を持つ浩一の目から、堪えていた涙がとめどなく溢れ、便箋の上にいくつもの染みを作っていく。それは、かつて彼が受け取った『助けて』という一言が書かれた手紙の、涙の跡とよく似ていた。

静香の、長くて短い人生の幕が、静かに閉じた。


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