第六章:最後の歌声 (2000年代)
彩音が3歳になり、幼稚園の発表会の日がやってきた。きっかけは、些細なことだった。発表会の練習でぐずる彩音をあやすため、静香が何気なく口ずさんだ子守唄。それを、遊びに来ていた彩音の友達の母親が聞いてしまったのだ。「奥さんの声、プロみたい!」「ぜひ発表会で歌って!」その歌声の素晴らしさはあっという間に評判となり、静香は保護者たちの出し物で一曲歌うことを、断りきれない状況に追い込まれてしまった。
人前で歌うなんて、何年ぶりだろう。ざわめきと、自分に向けられる期待の眼差し。その空気に、忘れていたはずの過去の記憶が甦り、心臓が軋むように痛んだ。しかし、ピアノの伴奏が始まった瞬間、静香の体は自然とリズムを刻んでいた。歌い方を、体が覚えていた。ブランクを感じさせない、深く、そして澄み渡る歌声。それは、夢だけを追いかけていた少女時代とは違う、娘への愛に満ちた、温かく優しい歌声だった。歌い終わると、遊戯室は万雷の拍手に包まれた。その光景が、湊高校の文化祭のステージと重なり、静香の頬を涙が伝う。隣で彩音が、目を輝かせて母の姿を見上げていた。「ママ、すごい! 彩音も、ママみたいに歌手さんになる!」娘の無邪気な言葉が、嬉しく、そして少しだけ切なかった。
残酷な宣告
だが、幸せな時間は長くは続かなかった。彩音が5歳になった年、静香は喉に取れない違和感を覚え始める。診断の結果は、咽頭がんだった。
医師から告げられた言葉が、冷たい診察室の空気に突き刺さる。
「声を残すか、命を取るか。どちらかを選んでください」
その瞬間、静香の世界から一切の音が消えた。神様は、どこまで自分から奪えば気が済むのだろう。夢を、仲間を、青春の全てを捧げた「歌」。その象徴であるこの声を、命と引き換えに差し出せという。それは、これまでの自分の人生そのものを否定されるに等しい、あまりにも残酷な宣告だった。
しかし、絶望の淵で彼女の脳裏に浮かんだのは、ステージの上の自分ではなかった。
「ママ、だいすき!」と笑う、幼い娘の顔だった。静香は無意識に鞄を探り、震える手で財布を開く。そこに挟んであった、七五三の晴れ着姿で、はにかみながら笑う彩音の写真。この子の未来。この子が大人になる姿。それを見届けることのできない人生に、一体どんな意味があるというのか。
この声は、もうスターになるためのものじゃない。彩音の名前を呼ぶため、子守唄を歌うため、愛していると伝えるためのものだ。その温かい感情が、心の奥からこみ上げてくる。迷いは、一瞬で消え去っていた。
「……この子のために、生きたいです」
それが、静香が自らの「声」で発した、最後の明確な意志だった。歌を捨て、声帯の全摘出手術を受けることを、彼女は即決した。
声なき絶叫
手術後、麻酔から覚醒し、静香の世界から「音」を発するという機能が永遠に失われた。喉に走る激しい痛み。何かを伝えようと口を開いても、ヒュー、とかすかな空気の漏れる音がするだけ。叫ぶことさえできない現実に、声なき絶叫が胸の内側で木霊する。
浩一は、そんな彼女の手を、祈るように両手で優しく握りしめる。その温もりだけが、静香をこの世に繋ぎとめていた。
「静香、よく頑張った。生きててくれて、ありがとう」浩一は涙を堪えながら、語りかける。
「もう、いいだろう。戦うものは、もう何もないんだ。実家の近くで、皆で彩音を育てていこう」ようやく、長すぎた逃亡生活を終え、彼女を陽の当たる場所へ連れて帰れる。浩一はそう思った。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、静香の目に絶望の色が浮かんだ。彼女は憑かれたように首を激しく横に振り、浩一の手を振り払うと、枕元のメモ帳とペンを掴んだ。そして、ペンが紙を突き破らんばかりの力で、乱暴に文字を書きなぐる。
『歌手になると言って町を出た私が、歌も声も失って、どんな顔で帰ればいいの』
それは、あまりにも痛々しい、彼女の最後のプライドだった。




