第四章:生まれた光 (1990年代後半~2000年代)
雪深い北の集落で息を潜めるように過ごした季節が過ぎ、春の雪解けと共に父・誠司から連絡が入った。もう追手の心配はないだろうが、念のためだと、大阪にいる父の古い知人を頼り、二人は住み込みで働ける町工場へと移り住むことになった。
時代は、後にバブルと呼ばれる空前の好景気に沸いていた。世間が浮かれ、誰もが未来を信じて疑わなかった狂騒の季節。だが、工場の機械油の匂いに塗れて働く二人の時間は、あの湊町を出た日から止まったままだった。テレビに映る華やかな世界は、まるで違う国のできごとのようだった。
やがて、泡は弾けた。時代の大きなうねりが終わりを告げた頃、母・朱美から一本の電話が入る。詐欺容疑で、佐伯が逮捕されたという知らせだった。長かった悪夢の、本当の終わり。浩一は、ようやく帰れるのだと、心の底から安堵した。
「静香、もう安心だ。町に、帰らないか」
だが、静香は力なく首を横に振った。その瞳には、かつての光ではなく、諦めにも似た暗い影が落ちていた。
「……帰れないよ。歌手になるって、みんなに見送られて出ていったのに。こんな姿で、帰れるわけないじゃない」追手という物理的な枷は外れても、夢に破れたという心の枷は、より重く彼女にのしかかっていた。
その後、浩一が勤めていた町工場が不景気の煽りを受けて倒産し、二人は故郷の隣県に小さなアパートを借りて移り住んだ。故郷の匂いが、風に乗って届きそうな場所。そこで二人は、ささやかに入籍した。
その夜、アパートの狭い部屋で、ささやかな祝いの席が設けられた。浩一の両親である誠司と佳乃、そして静香の母、朱美。長い逃亡生活を支えてくれた、たった三人の家族だった。ようやく掴んだ穏やかな時間に、佳乃と朱美は涙ぐみ、無口な誠司も、その目元を少しだけ緩ませていた。
宴が少し進んだ頃、静香が決心したように、皆に向かって深く頭を下げる。
「お父さん、お母さん、母さん……一つだけ、お願いがあります」その場の空気が、静かに張り詰める。「お願いだから、恵ちゃんや順ちゃんたちには……私たちのこと、絶対に連絡しないでください」その声は、祈るように震えていた。
「私のことは、もう死んだとでも……そう思わせておいてほしいんです」
過去との、そして輝かしい青春の記憶との、完全な決別宣言。その痛々しいほどの決意に、皆が言葉を失った。
次の瞬間、朱美が畳に手をつき、誠司と佳乃の前で、深々と頭を下げた。
「申し訳ありません……! 私どものせいで、あっちこっちに振り回した挙げ句に、こんなお願いまで……!」嗚咽と共に、朱美は土下座した。「この子のわがままを……どうか、どうかお許しください……!」
娘の心の傷の深さを改めて突きつけられ、それを癒してやれない母親の無力さと、浩一の家族への申し訳なさが、彼女の背中を重く圧していた。
そんな朱美の肩に、誠司がごつごつとした大きな手をそっと置いた。
「顔を上げてください、朱美さん」静かだが、有無を言わせぬ響きだった。誠司は朱美をまっすぐに見つめると、今度は静香に向き直り、これまで見せたことのないほど優しい眼差しで言った。
「静香さん。それはわがままなんかじゃねえ。あんたが、全てを懸けて戦ってきた証だ。……こんなに素晴らしい嫁さんの、たった一つのお願いだ。俺たちが聞かないわけがねえだろう。安心しろ」
そして、最後に息子の浩一の肩を強く叩いた。
「こちらこそ、こんな良い娘さんを、本当にありがとうございます。うちの浩一を、どうかよろしくお願いいたします」誠司はそう言って、朱美に深く頭を下げた。過去の全てを飲み込み、二人の未来を祝福する、無骨な父親の、最大の愛情表現だった。
新しい生活は、静かで、そして平坦だった。だが、二人の間には新たな悩みが影を落とす。なかなか子宝に恵まれなかったのだ。歳月だけが過ぎていく焦りの中、静香は30歳になっていた。もう夢を追うことも、過去に帰ることもできない自分の人生は、このまま色褪せていくだけなのだと、そう思い始めていた矢先だった。静香の腕の中に、小さな命がやってきた。娘・彩音の誕生だった。
その温かくてか弱い存在は、光を失っていた静香の人生に、新たな意味をくれた。この子を守るためなら、強くなれる。初めて心からそう思えた。孫の顔が見たいと、浩一の両親や、近くに引っ越してきた母・朱美が、頻繁にアパートを訪れるようになった。彩音を囲む家族の笑顔の中で、頑なに閉ざされていた静香の心も、薄氷が溶けるように、少しずつ、少しずつ癒されていくのだった。




