第三章:北への逃亡 (1986年春)
藤原牧場での束の間の穏やかな日々は、一本の電話によって唐突に引き裂かれた。浩一の元に、友人である豊から焦燥に駆られた声で連絡が入ったのだ。スナック「朱美」に、いかにも筋者といった風体の男たちが怒鳴り込んできたという。やがて明らかになった事実は、あまりにも悪質だった。佐伯は朱美から受け取っていた東京での生活費やレッスン代を持ち逃げしたばかりか、業界の有力者からも静香を"ネタ"に多額の金を引き出し、姿を消していた。そして、その男たちは、佐伯と朱美がグルになって自分たちを騙したのだと信じ込み、血眼になって静香の行方を追っている。
「静香だけでも連れ帰らねえと、俺たちのメンツが立たねえんだよ」
男たちはそう息巻いていたという。彼らにとって静香は、金を取り返すための最後の担保であり、踏みにじられた面子を回復するための道具でしかなかった。
その夜だった。一台の黒いセダンが、牧場へと続く砂利道の入り口に音もなく停まった。家の中から息を殺して見守る浩一と静香。応対に出たのは、父の誠司だった。車のヘッドライトが闇を切り裂き、母屋を白く照らし出す。その光の中に、仁王立ちになった誠司の姿が浮かび上がった。砂利を踏みしめて近づいてきた男は、値踏みするように誠司を睨めつける。
「おい、オヤジ。宮前静香という娘がここにいるな」 男のねっとりとした声に対し、誠司は顔色一つ変えない。ただ、その黒々とした瞳で、侵入者を射抜くように見つめ返した。
「……ここは牧場だ。人間の名前より、牛の名前の方が詳しい」
「とぼけるんじゃねえぞ!」 別の男が苛立ったように声を荒らげた。
「こっちは全部わかってんだよ。さっさと娘を出しやがれ。てめえらみてえな田舎者が関わっていい話じゃねえんだ」
男たちが一歩、また一歩と距離を詰める。その威圧にも、誠司は揺るがない。彼は足元の土を一度確かめるように見てから、静かに、しかし腹の底から響くような声で言い放った。
「知らんもんは知らん。ここはな、毎朝陽が昇ると同時に起きて、土と牛の世話だけをして生きてる場所だ。お前らみてえな、夜にしか生きられねえ連中が嗅ぎ回っていい匂いは、ここには一つもねえ。二度とその汚ねえ靴でうちの土地を踏むな。帰れ」
その気迫に、男たちは一瞬怯んだ。やがて忌々しげに舌打ちをすると、車は乱暴にUターンし、闇の中へと消えていった。
家に戻った誠司は、テーブルに両手をつき、重い口を開いた。
「……ここも、そう長くは持たん」彼の決断は早かった。浩一と静香を、母・佳乃の実家がある北の豪雪地帯へと逃がすという。
「奴ら、おそらくまだ近くに張り付いてる」誠司は冷静に状況を分析し、危険な策を口にした。
「俺がまず、軽トラで繁華街の駅の方に向かう。奴らが食いついてきたら、そのまま引き連れてしばらく走り回って、朱美さんの店の方へ顔を出す。奴らがそっちに気を取られている間に、お前たちは北へ向かえ」
あまりにも危険な囮役。しかし、それが最も確実な方法だった。深夜、全ての音が寝静まるのを待って、計画は実行された。まず、誠司の軽トラックがエンジンをかけ、駅の方角へと走り去っていく。その赤いテールランプが、闇に吸い込まれるように消えた。
家の明かりを全て消し、浩一と静香は窓のカーテンの隙間から息を殺して外を窺う。時間は止まったように感じられた。
その時だった。誠司が走り去った道とは少し離れた木立の影で、ヘッドライトが二つ、ぼんやりと点灯した。誠司の読みは、正しかった。潜んでいたのだ。二つの光は、すぐさま誠司の軽トラックを追うように動き出し、やがてそれも夜の闇へと消えていった。
「……行った。今だ!」 浩一は静香の手を引き、牧場の裏手に隠してあった車に乗り込んだ。免許を取ってから、雪道を走った経験はほとんどない。初心者がこれから越えようとしているのは、まだ雪深い北の峠道だ。不安でハンドルを握る手が汗ばむ。だが、隣で体を固くする静香を守れるのは、もう自分しかいない。
浩一は覚悟を決め、ゆっくりとアクセルを踏んだ。車は、父が向かった道とは逆の、闇に沈む山道へと静かに滑り出した。




