第二章:君を迎えに (1986年冬)
『助けて』
たった一言、そう書かれた便箋の文字は、彼女の涙でインクが滲み、紙が歪んでいた。それはインクの染みというより、魂が流した血の跡のように生々しく、歌姫の仮面を剥がされた一人の少女の、悲痛な叫びを伝えていた。
「大学の見学に行ってくる」
浩一は、両親にそう嘘をついた。父の誠司は、黙って何かを見透かすような鋭い視線を向けたが、それ以上何も問いただしはしなかった。浩一はなけなしの金をかき集め、その足で駅へ向かい、東京行きの夜行列車に飛び乗った。ガタン、ゴトンと規則正しく揺れる車内で、彼は握りしめた手紙の、インクの掠れた文字を何度も見つめる。窓の外を流れる暗闇の向こうに、助けを待つ彼女の顔が浮かんで消えた。怒りと、不安と、そして彼女を絶対に守り抜くという、生まれて初めて感じる激しい衝動が、浩一の胸の中で渦巻いていた。
新宿駅の、人を飲み込むような雑踏をかき分け、ようやく探し当てたアパートは、都会の喧騒から取り残されたように陽の差さない場所に建っていた。ドアを叩くと、しばらくの沈黙の後、チェーンがかかったまま、警戒するようにわずかに開く。その隙間から覗いた静香は、浩一が知っている彼女ではなかった。光を失い、深く落ち窪んだ瞳。痛々しいほどにこけた頬。そして何より、あの向日葵のような笑顔が、完全に消え失せていた。
部屋に招き入れられ、途切れ途切れに語られる静香の話を聞き、浩一は全てを悟った。夢を追いかけた少女が、都会の汚れた現実に尊厳ごと打ちのめされるまでの時間を。
「帰ろう、静香」
浩一は静かに、しかし有無を言わせぬ響きで言った。
「全部捨てて、ってわけじゃない。……ただ、心が少し回復するまででいいから。な?」
彼は虚ろな表情で俯く静香の手を取り、ほとんど強引にその腕を引いてアパートから連れ出した。
「でも……もし、追手が来たら……」怯える静香の言葉に、浩一は「まさか」と思いつつも、彼女の瞳に宿る本物の恐怖に、言い知れぬ不安を覚えた。新宿駅の雑踏に再び身を隠し、何度も背後を振り返りながら、二人はまるで何者かから逃げるようにして東京を脱出した。
帰りの列車の中、車窓の景色がビル街から田園風景に変わっていくにつれ、張り詰めていた静香の何かが切れた。
「実家には帰りたくない」と、子供のように泣きじゃくる。夢に破れ、ボロボロになった姿を、たった一人の母親にだけは見せたくないという、彼女の最後のプライドだった。浩一はそんな彼女をなだめ、列車を降りると、町へ向かうバスには乗らず、逆方向の道を歩き始めた。彼が向かったのは、湊町の外れにある自分の実家、藤原牧場だった。
夕暮れの牧場に、浩一が静香を連れて帰ってきた時、両親は牛舎の前で黙々と作業をしていた。突然のことに驚き、いぶかしむような視線を向ける二人。しかし、息子の必死な形相と、その背中に隠れるように立つ少女の、明らかに尋常ではない様子を見て、父・誠司は難しい顔をしながらも、ただ一言、「……入れ」とだけ呟いた。それは、全ての事情を受け入れ、厄介事を引き受けるという、無口な男の覚悟の言葉だった。
母・佳乃は、何も聞かずに静香を家に招き入れた。そして、搾りたての牛乳を温めたホットミルクを、冷え切った彼女の手にそっと握らせる。モー、モーという牛の鳴き声と、湿った土の匂い。都会の喧騒とは無縁の、生命の気配だけが満ちる静かな牧場で、静香は数ヶ月ぶりに、張り詰めていた心の糸を、ほんの少しだけ緩めることができた。温かいマグカップの湯気が、凍てついた心をゆっくりと、ゆっくりと溶かしていくようだった。




