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第一章:東京の空、歌えないカナリア (1985年秋~1986年初頭)

湊高校の体育館を震わせた喝采と、仲間たちの涙に見送られたあの日から、季節は一つ巡っていた。宮前静香は、亡き父の親友であった音楽プロデューサー、佐伯を頼って一人、東京の地に立っていた。すぐにでもデビューできる。あの歌声があれば、この街でだって輝けるはずだ。胸に抱いた希望は、秋の空のように高く澄み渡っていた。


しかし、静香が案内されたのは、西新宿の高層ビル群が吐き出す影の中に埋もれた、古い雑居ビルの一室だった。ドアを開けた瞬間に、埃と微かなカビ、そして誰かが吸ったタバコの匂いが混じって鼻をつく。窓の外には隣のビルの汚れた壁しか見えず、昼間でも薄暗い。隅には調律の狂ったアップライトピアノが置かれ、壁には過去の栄光であろう、黄ばんだポスターが数枚貼られているだけ。そこが、静香の夢の拠点となるはずのレッスンスタジオだった。


そこには、静香より数ヶ月早く上京してきたという、里奈という同い年の少女がいた。気怠げな瞳で、いつも細いタバコ(セーラムライト)をふかしている彼女は、静香にとっての東京の現実を映す鏡のような存在だった。


「今日のレッスンも、発声と課題曲の反復。で、夜はコレね」 里奈は、佐伯から渡された一枚のチラシを、つまらなそうに静香に見せた。どこかの企業の忘年会の案内状だ。与えられる仕事は、こうした名の知れた歌手の前座にもならないような、地方のイベントやパーティーでの歌謡ショーばかり。泥酔したサラリーマンたちのカラオケの合間に、数曲歌うだけ。聴いている者など、誰もいやしない。


「これも下積みだ。お前の親父も、里奈の憧れてるスターも、みんなこうやって一歩ずつ進んでいったんだ」 佐伯は父親の名前を巧みに使い、静香の焦りを諭すように言った。だが、肝心のデビューの話は、季節が肌寒い冬に変わっても一向に進展する気配を見せない。


昼は意味があるとも思えない基礎練習を繰り返し、夜は生活費を稼ぐため、駅前のファミリーレストランで日付が変わるまで働く。油の匂いと「いらっしゃいませ」の喧騒の中で、故郷の港で歌っていた頃の自分が、どんどん遠くなっていく。故郷の港町では誰もが振り返った歌姫も、この東京では掃いて捨てるほどいる歌手志望の一人に過ぎなかった。


「佐伯さんの『お前の親父も』ってセリフ、あたし、もう8回聞いたな」 レッスンの後、パイプ椅子に座ってタバコをふかす里奈が、虚ろに笑って言った。その言葉が、厳しい現実を静香に突きつける。じわりじわりと心を蝕む焦りと、肉体をすり減らす疲労。あれほど自信に満ちていたはずの歌声から、自分でもわかるほどに、あの突き抜けるような輝きが失われ始めていることに、静香はまだ気づかないふりをしていた。


そんなある夜、佐伯が珍しく少し浮き立ったような声で言った。

「静香、チャンスだ。業界の大物プロデューサーが、お前の歌を聴きたがっている。今夜、少し付き合え」

その言葉に、沈みかけていた静香の心に再び希望の灯がともる。連れて行かれたのは、赤坂の、重厚な扉で外界と隔絶された高級クラブだった。まだ客もまばらな早い時間。ベルベットのソファが並ぶ個室で、静香はぎらついた目をした数人の男たちを前にした。これが、オーディションなのだと自分に言い聞かせ、カラオケのマイクを握る。


静香が歌い始めると、部屋の空気が変わった。遊び半分だった男たちの視線が、驚きと感嘆に染まっていく。その声は、こんな薄汚れた場所で響くには、あまりにも真っ直ぐで、切実だったからだ。歌い終わると、一番上座に座るプロデューサーが、わざとらしく大きな拍手をした。「いや、大したもんだ。素晴らしい声だ」

しかし、その目は静香の喉ではなく、いやらしい光を帯びて全身を舐めるように見ていた。そして、自分の隣のソファを、ポン、と軽く叩く。「歌はもういい。さあ、こっちへ来て、俺に酒を注いでくれよ」

その一言で、静香の抱いた希望はガラスのように砕け散った。オーディションなどではなかった。自分は、この男たちへの「肴」としてここに連れてこられたのだ。助けを求めるように佐伯を見ると、彼は目線だけで「やれ」と命じていた。


震える手で水割りのグラスを差し出す静香の耳元で、佐伯が囁く。

「清濁併せのむのが、この世界だ。歌が上手いだけじゃ、ここから上には行けないんだよ」

その言葉が、耳鳴りのように頭の中で反響する。父が愛し、自分が信じた音楽の世界は、こんなにも汚れた場所だったのか。差し出したグラスを持つ男の指が、自分の指にいやらしく絡みついてきた。静香は、ただ愛想笑いを浮かべることしかできなかった。


東京での生活を心配する故郷の母、朱美からの週に一度の電話には、いつも以上に明るい声を作って応えた。それが、今の静香にできる唯一の親孝行だったからだ。

「もしもし、母さん? うん、あたし! 元気だよ、元気すぎるくらい! こっちの生活もすっかり慣れたって!」

受話器を握りしめ、必死に笑顔を作る。電話線の向こうにいる母に、その嘘が見透かされないように。

「この間ね、佐伯さんがすごい有名な作曲家の先生に会わせてくれて、あたしの歌、すっごく褒められちゃった! デビューも、もうすぐかもって。だから、本当、心配しないで。レッスン料も生活費も、全部佐伯さんが出してくれてるから……」


娘の夢を託した旧友が、その夢を食い物にしているなどとは露ほども思っていない母の声は、電話越しにも弾んでいた。「そうかい、よかった!」と、心から喜んでくれているのが痛いほど伝わる。その無垢な信頼が、刃物のように静香の胸を鋭く抉った。


父の親友に裏切られ、その男を信じ切っている母にまで嘘の成功物語を語り続けるしかない。電話を切った後、ツーツーという無機質な音だけが響く部屋で、張り詰めていた糸が切れる。静香は、誰にも打ち明けられない孤独と絶望の重さに、独り静かに押し潰されていた。


正月も過ぎ、街が浮かれた騒がしさから落ち着きを取り戻し始めた頃。ある凍えるような夜、静香は一人、場末のライブハウスにいた。佐伯が「お前のためのステージだ」と言って取ってきた、取ってつけたような仕事だった。


バックステージの空気は、アルコールとタバコ、そして他の出演者たちの焦燥感で淀んでいる。静香は壁に寄りかかり、何度も喉に手を当てた。度重なる夜の接待で心はすり減り、その毒は、彼女の命そのものである喉を、鉛のように重く、固く締め付けていた。


やがて名前を呼ばれ、ステージに上がる。眩いスポットライトを浴びた瞬間、客席のまばらな人影が、品定めをするように自分を見ているのがわかった。色褪せ、まだ残っている安っぽい新年の飾り付けが、自分の惨めさを笑っているように見える。


イントロが流れ、静香は息を吸い込む。だが、歌い出した声は、自分でも信じられないほどにか細く、震えていた。そして、曲のクライマックス。彼女の自慢だったはずの、どこまでも突き抜けるような高音が、来ない。壁にぶつかったように喉が詰まり、裏返ったかすかな音が漏れるだけだった。

ざわ、と客席が揺れる。憐れむような視線、あからさまな失笑。その全てが、無数の冷たいナイフとなって静香の全身に突き刺さる。演奏はまだ続いているのに、彼女はマイクを握りしめたまま、ステージの真ん中で立ち尽くした。


どうやって家に帰ったのか、記憶がなかった。気づけば、六畳一間の冷たいアパートの床に座り込んでいた。窓の外では、東京の夜景が宝石箱をひっくり返したようにきらめいている。楽しげな人々の笑い声や、どこかの店から流れてくる流行りの歌が、壁を突き抜けて聞こえてくる。あの光の中に、あの喧騒の中に、自分の居場所はどこにもない。歌を失った自分は、この巨大な街で、たった一人で壊れていくしかない。


孤独と絶望の淵で、静香は、震える手で机の引き出しから便箋を取り出した。この暗闇から自分を救い出してくれるかもしれない、たった一つの光。故郷に残してきた、唯一の心の拠り所。涙が一粒、便箋の上に落ちて滲む。彼女は祈るように、その名前を綴った。


『藤原浩一様』


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