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プロローグ

17歳のアンコールの続編です

ネオンの看板が消え、客たちの喧騒が嘘のように静まり返ったスナック「朱美」。カウンターやボックス席には、東京で歌手になる夢を追う静香のための、高校生たちの賑やかな送別会の余韻が微かに漂っていた。店の開店を前にした解散は、彼らにとって現実への引き戻しの合図でもあった。


「じゃ、明日の駅でな」

港町特有の潮の香りが混じる夜道を歩きながら、豊がいつものようにカラッとした声で言った。その一言を合図に、一人、また一人とそれぞれの家路へと分かれていく。最後の文化祭から季節は巡り、彼らは高校二年の冬を迎えていた。変わらないようでいて、確実に何かが終わろうとしている。そんな寂しさを振り払うように、誰もが最後まで軽口を叩き続けた。

やがて道には、浩一と静香の二人だけが残された。街灯が作る頼りない光の円を、一つずつ踏みしめるように歩く。どちらからともなく、言葉は途切れていた。


「……明日、みんなと別れるの、辛いから」

ぽつりと、静香が呟いた。

「だから、あたし一人で始発で行くわ」

それは、仲間を思う彼女らしい優しさであり、同時に、自分の決意を鈍らせたくないという悲痛な覚悟の表れでもあった。浩一は黙ってその言葉を受け止める。

「そうか。……じゃあ俺、今から家に帰ったら始発の時間に間に合わないから、駅にでも泊まるか」

浩一はそう言って、悪戯っぽく笑った。その視線が、駅とは逆方向の、静香の家へと続く坂道に向けられていることに、静香は気づかないふりをした。結局、浩一は当たり前のように静香の家の玄関を上がり、狭い彼女の部屋で、夢を語るでもなく、ただ静かな時間を共有した。


深夜、店の後片付けを終えた母の朱美が帰ってきた。リビングのソファに座る浩一の姿を見ても、彼女は少しも驚いた様子を見せず、「あら、いたのかい」とだけ言って、カウンターで水割りを一つ作り、静かに飲み始めた。娘の選んだ道を、そして娘が選んだ男の覚悟を、全て知っているかのような、深く、そして少し寂しげな横顔だった。


翌朝、午前四時半。まだ町が深い眠りについている時間。静香は旅支度を整え、リビングのテーブルに突っ伏して眠っている母の肩をそっと揺する。


「じゃあ母さん、行ってきます」

深酒のせいで重くなった瞼を朱美がゆっくりと持ち上げる。別れの辛さを隠すように、わざと呂律の回らない口調で何かを言おうとして、結局、ひらひらと力なく手を振るだけだった。その手の温かさと、自分を育ててくれた全ての時間が、静香の胸に込み上げる。


家を出ると、冬の早朝の空気が肌を刺した。駅までの道、二人はやはり無言だった。言葉にしてしまえば、何かが溢れてしまいそうで怖かった。やがて、遠くに駅の灯りが見えてきた。その時、浩一が不意に静香の肩を強く抱き寄せた。


「お前がこれから見る景色が、輝いてさえいれば、俺はそれだけで嬉しいんだ。だから、この先どんなに辛いことがあっても、俺だけはずっとお前の味方だから。それでも、もし何もかもうまくいかなくなったら、俺のところに、帰ってこい」

絞り出すような声だった。それは慰めでも、激励でもない。この町に残り、違う未来を生きることを決めた男が、夢を追う少女に贈る、唯一の願いと、そして最後の約束だった。


駅に着き、がらんとしたプラットホームへ続く階段を上る。そこにいたのは、いるはずのない二人だった。ベンチに並んで座り、白い息を吐きながら缶コーヒーをすする恵と順子。二人だけの、静かな別れになるはずだった。驚きに固まる静香と浩一を見て、恵がわざと意地悪く笑ってみせる。


「……静香だけに、静かに行こうってか。ほんと、あんたのしそうなことだよね」

軽口を叩くその目元が、泣き腫らしたように少し赤いのは、きっとホームの肌寒い空気のせいだけではないだろう。隣で順子も、親友の旅立ちを祝福したい気持ちと、寂しくてたまらない気持ちがない交ぜになったような、困った顔で微笑んでいた。その優しさが、堪えていた静香の涙腺を緩ませる。


やがて、遠い薄闇の向こうから、始発電車のヘッドライトが近づいてくる。ゴトン、ゴトンと響く金属音は、別れの時間を告げる無慈悲なカウントダウンのようだった。もう、言葉はいらない。四人の間には、これまでの全てを確かめ合うような、温かい沈黙が流れていた。


プシュー、と音を立ててドアが開く。

「じゃあ、行ってきます」

静香は一度だけ強く唇を結ぶと、三人の顔を、その笑顔を、瞳に焼き付けるように一人ずつ順に見て、そう言った。


電車がゆっくりと動き出す。窓に映る三人の姿が、少しずつ、少しずつ小さくなっていく。恵が、順子が、そして浩一が、必死に手を振っている。静香も、涙で滲む窓ガラスに手を当て、その姿が見えなくなるまで、ずっと手を振り続けた。


やがて電車の赤いテールランプも闇に消え、ホームには朝の静寂だけが戻ってきた。まるで祭りの後のような虚しさに、三人はしばらく言葉もなく立ち尽くす。その重い空気を振り払うように、恵がわざと浩一の脇腹を肘で小突いた。


「まったく、浩一は静香の言いなりになって、私達を騙してさ。……このことは、後で高く付くんだからね」

その声は、いつものように明るく、けれど少しだけ震えていた。静香のいない朝が始まる。昇り始めた太陽が、残された三人の影を長く、長くアスファルトに伸ばしていた。彼らは、それぞれの日常が待つ湊高校へと続く道を、一人分の空白を抱えながら、並んで歩き始めた。


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