27.革命前夜(後)
ミゼレーとの出会いは今も覚えている。
父に呼び出されたヴィルエは、レインブル家が『国王の耳』であることを打ち明けられた。レインブル家に男子はいないため、ヴィルエかオルナのどちらかがこの仕事を継ぐ予定だったが、オルナよりはヴィルエが向いていると判断したようだ。
そしてヴィルエ自身も、自分が選ばれたことを運命のように思った。これならばオルナとセラティスの恋路を守るのことができるのだと嬉しく思った。
だがヴィルエが『国王の耳』となってもうまく行かぬことはあった。
あいにくとヴィルエは体を動かすことが得意ではない。社交の場ではうまく戦えるが、屋敷に潜入するなどは不向きだ。これから先、どのように動いていけば良いのか。
そのように考えていたヴィルエは、ミゼレーと出会ったのだ。
社交パーティーの帰り道。偶然馬車が通り過ぎたスラム街に、ミゼレーがいた。
壁に背を預け、膝を抱えている。だがその眼光は鋭く、ヴィルエが乗った馬車を睨み付けていた。
彼女だ、と直感した。
御者に命じて馬車を止め、ヴィルエは彼女のもとに近づく。だがそこにいたはずのミゼレーは姿を消していた。
この一瞬でいなくなることがあるだろうか。首を傾げようとした時、首に触れたのは彼女が持っていたナイフだ。
ヴィルエが馬車を降りる間に身を隠し、隙をついてヴィルエに襲いかかってきたのだ。
周囲の者たちは悲鳴をあげていたが、ヴィルエは動じず、それどころか笑っていた。
欲しいと思っていた者がこんな簡単に見つかるなんて思ってもいなかったのだ。
誰を襲えば儲けが大きいのかを速やかに見定めた判断力。
ヴィルエや周囲の者たちの隙をつく俊敏さ。
そして――貴族の令嬢に襲いかかるという大胆な行動。
ただ、嬉しかった。この娘をそばに置きたいと強く思った。
『素敵ね。私、あなたみたいな人が好きだわ』
『……何を』
『あなたの力が欲しい。あなたを飢えさせることも飽きさせることもしない。だから私と一緒に来てちょうだい』
『突然言われても、困る』
『確かにそうね。でも決断できるのは今だけよ。あなたがこのまま路上で過ごしたいのなら構わないけれど、路上から離れて生まれ変わりたいのなら私に力を貸して』
今にして思えば、これでよくミゼレーがついてきたものだ。ヴィルエの言葉をミゼレーがどのように受け止めたのかは知らないが、彼女と共に馬車に乗り込み、レインブル家へと戻った。
突然現れたミゼレーに父はひどく驚いていたが、ヴィルエが説き伏せた。そして表向きはヴィルエ付きの侍女として置き、裏ではヴィルエでは得られない情報を探ってもらっている。
そのように二人三脚で過ごしてきたのだ。ヴィルエがミゼレーのことをよく知っているように、ミゼレーにもヴィルエのことは筒抜けなのだろう。
ヴィルエはふっと短く息を吸い込み、彼女に聞いた。
「ミゼレーから見て、どうかしら。私は旦那様のことが好きなのかしら?」
これにミゼレーは首を傾げた。
「それは私ではなく、ヴィルエ様自身のお気持ちでしょう」
「あなたの観察眼を信じてみたくなったの。ほら、本人よりも周りの方が気づくこともあるでしょう?」
「ならば、ヴィルエ様は旦那様のことを慕っているのだと思います」
ミゼレーが躊躇わず答えたことに、ヴィルエは笑った。
「私、旦那様を揶揄って遊んでいるだけよ。グレンが言っていたキスだって、旦那様への意地悪だもの」
「いえ。私が知るヴィルエ様は、たとえ揶揄いや意地悪だとしても自分の身を使うことはしません。仕事として割り切ったとしても一定のラインは超えさせない潔癖症の方です。だから、ここまで誰とも関わりがなかったではありませんか」
情報を得るために武器として迫ることはある。だが、相手がこちらに手を伸ばそうとすればさっと身を引く。デールの時だってそうだ。肝心なところでヴィルエはうまく逃げていた。
「好きという感情が好意なのか別のものかはわかりませんが、ヴィルエ様が旦那様に興味を持っているのは間違いないでしょう」
「そうね……興味はあるわ」
「個人的に興味を抱く――そういう人は、初めてなのでは?」
『国王の耳』としての行動ではなく、ヴィルエという人間が持つ興味。だから今、アクシオのことを知りたいと思っている。彼の姿を思い浮かべ、ヴィルエは短く呟いた。
「揶揄うと可愛いからね。あの人、すぐに顔を赤くするのよ」
「女性に慣れていないのでしょうね。グレン様もそのように話していましたし」
「……グレンと仲が良いのね? そんな話をしていたなんて知らなかったわ」
「屋敷の情報掌握において彼との会話は有益ですから」
グレンとミゼレーは意外な組み合わせだ。ミゼレーは真面目すぎるところがあり、雑談が得意ではない子だ。おまけに表情変化も乏しいため、何を考えているのかわからないと思われることが多い。そんなミゼレーとグレンの世間話をするなんて想像しにくい。
(二人が情報交換なんて……想像つかないわね。どんな会話になるのかしら)
ミゼレーに聞いてみたいところだが、それよりも先に彼女の口が動いていた。飛んできたのはヴィルエへの忠告だ。
「ヴィルエ様が男性を揶揄い弄んで愉しむのを止めはしませんが、気をつけた方がよいかとは思います」
「あら。どうして?」
「反撃されますよ」
その一言に、ヴィルエはぐっと息を呑む。
思い当たるものはいくつかある。二人が近づいた時、アクシオの瞳が熱に浮かされたようになり、彼にしては珍しく強引な迫り方をする。彼のその力強さに、女性と男性の違いを見せつけられているようで、ヴィルエの顔はいつも赤くなる。
まさかそれさえも知っているというのか、とヴィルエはミゼレーの様子を窺っていたが、ミゼレーは淡々としていた。
「ヴィルエ様は表向きは強気に見えますが、その本心はかなりのピュアですから。迫られると化けの皮が剥がれてしまうのでは?」
「化けの……! ミゼレー、あなたも言うようになったのね?」
「それはもちろん。ヴィルエ様と長く共にいますからね」
珍しく、ミゼレーの口角がかすかにだが持ち上がる。得意げに鼻を鳴らす様子から、この会話を楽しんでいるようだ。ヴィルエのそばにいる間に、ミゼレーも強さを身につけてきたのだろう。
(ピュアなのは私じゃなくて旦那様よ。私は違うもの)
アクシオならば怒って反論していそうだ。そのように想像できてしまったからこそ、ヴィルエは反論をぐっと飲み込む。
行き場のない感情を込め、手にしていた本のページをめくる。
そこで思い出したようにミゼレーが呟いた。
「五年前……だったかは思い出せないのですが、公爵の詳細を調べようとして王家に止められた一件がありましたね」
「あったわね。ハイネ公爵だったかしら。ガードレット王の弟ね」
一時期は社交界にも精力的に参加し、国内でも名をあげていたのがハイネ公爵だ。
だが、ある時を境に彼はぱったりと現れなくなった。病に伏しただの王の怒りを買っただの、様々な噂が流れたものの、姿を消した真相はわからない。
当時レインブル家は別の件を調査していた。主犯となる者の候補にハイネ公爵の名もあがったため調査しようとしたが、ガードレット王直々にハイネ公爵への接近を禁じられたのだ。後に主犯となる者は別の者と判明したため、ハイネ公爵のことは頭から消えていた。
ミゼレーの言葉をきっかけに、ヴィルエはハイネ公爵に関する記事を探す。彼が最後に夜会に顔を出したのは五年前。以降、彼の情報は途絶えている。
(でもハイネ公爵は王弟よ。そんな人がどうして……)
アクシオを『夜梟』にする。その目的はアクシオの弟を守るためであった。
後になってアクシオは自分からその道を選ぶことになるのだが、もしもハイネ公爵が夜梟計画を企てていたのなら――ハイネ公爵が守ろうとしたアクシオの弟とは誰なのか。
「確か……ハイネ公爵は、ガードレット王と親しかったはずよね?」
「はい。誰よりもガードレット王を支えてきた方でした。若くして王位継承権を捨てたのも、ガードレット王のためにと城に通っていたのもハイネ公爵です」
間違いはないだろうかと確かめたのだが、ヴィルエの記憶通りで合っているようだ。
ハイネ公爵は誰よりも兄であるガードレット王を慕っていた。彼が王になるのならば自分が剣として支えると誓い、公爵に封ぜられた後も騎士団の指導に励んでいた。
そしてガードレット王もハイネ公爵を信じていたはずだ。重要な決め事があるたびに彼を呼び、『国王の耳』として謁見に向かった時もハイネ公爵は同席していた。王妃でさえ知らない諜報活動を知るほど、彼は信頼されていたのだ。
そんなハイネ公爵が暗殺者『夜梟』を作ろうとしたのはなぜだろう。ガードレット王に敵意を向けるような人だと思えない。ならば、『夜梟』の目的とは。
(まさか……旦那様の『弟』って)
確信は得られていない。けれど、ある人物が思い浮かぶ。
アクシオの母が遠くまで逃げたのも、ハイネ公爵が無理矢理に追いかけたのも。
そしてアクシオが解放されても、自らの『弟』を守るためにと暗殺者で在り続けるのも。
少しずつ、繋がっていく。




