25.闇を飲み込む(アクシオ視点)
アクシオを捕まえた薄水色の髪をした男――ハイネ公爵のもとに行ってからの日々は過酷であった。
アクシオの部屋は公爵の屋敷にある地下室であった。限られた者しか出入りできない隠された部屋である。環境は最悪で、石の床にはカビが生え、下水の匂いがする。
アクシオを育てる。ハイネ公爵はそのように宣言していたが、実際はひどいものであった。
はじめはどこかで見つけてきたのだろう遺体が運ばれてきた。ハイネ公爵は小さなナイフをアクシオに渡すと、遺体の解剖を命じた。
心音は止まっていたが体はまだ温かく、ナイフで裂くなどできなかった。アクシオは泣きながらナイフを手放す。
「で、できません」
だが、それをハイネ公爵は許さなかった。
「その程度で弱音をあげるようでは生かしてはおけないぞ」
逆らったアクシオの体に衝撃が走る。ハイネ公爵がアクシオを蹴り上げたのだ。それだけではなく、今度は背を革靴で踏みつける。
背骨への圧迫感と痛みに、アクシオは呻き声をあげる。
「ぐっ……うあ……ご、ごめんなさい……」
「許しを請うな!」
このように拒否をした結果に暴行されることは毎日のようにあった。暴行だけでなく罰として食事を与えられないこともある。アクシオの体は痩せ細っていた。
「痛みを感じるな。この程度の傷で苦しがってはならない」
「……はい」
「お前は何も感じず、任務を遂行するだけの道具だ。それがこの国の――」
彼の暴行を何度も受け、拒絶は無意味なのだと学んでから、アクシオは渡される課題を淡々とこなしていくようになった。
人間の体の構造や急所を学ぶだけでは終わらない。ハイネ公爵はアクシオの体も鍛え上げていった。アクシオを鉄の棒に掴まらせ、足元には針山を置く。手を放せば怪我をする状況を作り、アクシオの肉体と精神をどんどん追い込んでいくのだ。
テストと称して、他の貴族の屋敷に潜入することもあった。足音を消し、気づかれぬよう潜入して、ハイネ公爵が求める情報を得てくるのだ。
他にも様々なことがあった。ハイネ公爵が連れてきた犯罪者を仕留めることは多く、少しでも音を立てれば罰が与えられる。
(俺は……ただの道具なんだ)
痛みに怯え、ハイネ公爵の言葉に従い、その結果アクシオの手は血に塗れていた。何人もの命を奪い去る道具として生きている。
(弟を守るために……汚れ仕事をするために……俺は生まれてきたんだ)
水で洗い流しても体にまとわりついた血の香りが落ちない。肉体も心も、壊れていた。
***
過酷な日々はアクシオが十六歳になるまで続いた。その頃にはアクシオも暗殺者として動けるようになり、ハイネ公爵が持ってくる任務をこなせるようになっていた。
感情を押し殺し、ただの道具として生きる。
そんな時、光が現れた。
「……本当に、ここにいた」
いつもの扉を通って地下室に現れたのはハイネ公爵ではなく、初めて見る者だった。
だが、初めて見るくせに彼の顔を知っているような気がした。髪も目も似ていない。けれど持っている空気が同じだ。
「兄上。ずっと捜していたんです……こんな目にあっていたなんて……」
彼はアクシオを見つけるなり、その体を抱きしめ、涙をこぼした。
「もう苦しまなくていい。解放されたんです」
「……解放? 俺が?」
「皆であなたを捜していました。まさかハイネ公爵がこんなことをしていたなんて」
虚ろな瞳がゆっくりと動く。開かれた扉。地下室に差し込む光。
そこにはたくさん者がいて、懐かしい姿もあった。
「グレン……なのか?」
グレンだ。しばらく会っていない間に背が伸び、大人びた顔つきになっている。彼はその目に涙を浮かべながら、あの頃と同じように微笑んだ。
「助けにくるのが遅くなって申し訳ありません」
「生きて、いたんだな」
「当たり前ですよ。アクシオが助けてくれたんでしょう。もう苦しまなくていいんですよ。僕たちはあなたを解放するために来たんですから」
解放。その言葉を理解するには時間がかかる。それほどアクシオの心は蝕まれ、黒く染まっていた。
(解放って……でも俺は、これからどうしたらいいんだ)
染みついた生き方から急に解き放たれても、生じるのは困惑だ。
呆然とし、考えがまとまらない。けれど、『弟』が眩しく見えた。
「ハイネ公爵のやり方は許せません。私は兄上を傷つけてまで守られたくない。だから、もう自由になっていいんです」
アクシオを解放し、グレンという友達も連れてきてくれた。
苦しみ続けた十六年に初めて差し込んだ光のような存在。
それが『弟』だった。
(『光あれば闇がある。闇がなければ光はそこにいられない』……俺はこいつを守るために育てられてきたのか)
闇に飲まれて虚ろだったアクシオの瞳に光が灯る。その時初めて自分の生きる意味を知ったのだ。
自らを解放してくれた温かな存在。彼を守るために、自分は闇の中で育てられてきたのだ、と。
***
過去を語るというのは苦手であった。まして相手は聡いヴィルエである。
ハイネ公爵やグレン、弟の名は伏せ、詳細もぼかして彼女に伝えた。
(どうせ、俺を嫌うだろうな)
アクシオ自らが『夜梟』への道を選んだわけではない。一度解放されたのだが、今は自ら望んで『夜梟』を続けている。
解放されたくせにこの道を選んでいるような男だ。さすがのヴィルエも呆れるだろう。
その話をしたのは、彼女を試すような気持ちであった。
彼女のことが好きだと気づいたが、彼女の気持ちはわからない。アクシオを知れば知るほど、疎んじて離れていくかもしれない。離れていくのなら、早い方がいい。そうなれば傷は浅く済む。
「……それで解放されても、あなたは『夜梟』を続けているのですね」
ヴィルエが言った。これにアクシオは頷く。
「『夜梟』でなければ出来ないことが多い。俺を解放してくれた者への恩返しのようなものだ」
ハイネ公爵の地下室を出てから、アクシオは弟や父と何度も話し合った。過去を捨て遠い地で生きる提案もされたが、アクシオは自ら断った。そして『夜梟』として弟を影から支えることを決めたのだ。
グレンは『夜梟』としての生き方を強要されていない。だが、彼はアクシオが行く道についていくといって聞かず、今もそばにいる。
「拒絶するならしてもいい。俺が怖くなっただろ?」
話は終わりだと告げるように、ヴィルエに問う。
どうせアクシオが怖くなったと怯えているだろう。そのように想像していたのだが、ヴィルエの反応は異なるものだった。
「つらい過去だとは思います。ですが拒絶も恐怖もありません。あなたの選択を咎めることだってしませんわ」
「……人道に反してる、と言ってもいいんだぞ」
「どうかしら。守りたいものがあるって素敵なことだと思いますけれど」
驚くほど、ヴィルエは動じていない。
ハイネ公爵家での日々をグレンに話せば『うわあ……僕はいやです』と顔を顰めるのだが、ヴィルエにはそんな様子は一切なかった。
「今も囚われているのなら異なる反応かもしれませんね。でも今は、自ら望んで『夜梟』として生きている。守りたいものはあるけれど、この生き方でしか守れない。そういうことでしょう?」
「お前は……驚かないんだな」
「ええ。大切なものためならば非情になっても構わないという生き方もあるでしょう。覚悟が決まっていて、むしろ清々しいと思いますわね」
平然としたその様子に、心の奥底で安堵する。
動じず、いつも通り。それどころか『守りたいものがあるのは素敵』とまで言ったのだ。
(……受け入れられている、気がする)
まるでヴィルエ自身も、同じ選択をしたかのような落ち着き方である。アクシオが見ている闇と同じものを、ヴィルエも知っているのかもしれない。
(だから、惹かれるのかもしれない)
試したはずが、こちらが惹かれている。
守りたいと思うのではなく、隣にいることが心地よい。
他の者とは違う感情が、彼女に対してだけ生じる。
「それで条件とは?」
ヴィルエに問われ、アクシオは自らが抱いていた苛立ちを思い出した。
(そうだった。あの金髪の男……あいつがヴィルエに迫っていた)
パーティーに潜入していた時、ヴィルエの様子を確かめていた。アクシオの目的は別のところにあったが、ヴィルエが来ているとなれば気が散り、気づけば彼女のことばかり目で追っていた。
デールに迫られているのを見た時は苛立ちが湧いたが、ニーベルジュを悪く言われたことに反論するヴィルエを見て、気持ちは鎮まった。
彼女がデールのことをよく思っていないのは伝わっている。接近するのも彼女が抱く目的のためにすぎないのだろう。
そのように信じていたからこそ、その後に目撃してしまった金髪の男とのやりとりが飲み込めずにいた。
(初めて見る男だった。ヴィルエはあいつを知ってるのか? どういう関係なんだ?)
会話までは聞こえてこなかった。だが、見えたのは彼がヴィルエの首に触れ、顎を持ち上げた瞬間のこと。
瞬時にして怒りがこみ上げ、二人の間に割って入りたいと思うほどだった。あんな風にヴィルエに触れるなんて許したくない。
その結果、彼女に声をかけていた。迎賓館を出た彼女を放っておくなんてできなかった。それならば『夜梟』としてでも良いから彼女のそばにいたい。他の男のそばに置くぐらいなら、自分と共にいてほしい。
「条件は……そこに座っていてくれ」
訳が分からぬといった様子でヴィルエがこちらを見上げる。
『夜梟』はゆっくりと立ち上がった。




