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21.答えのない罰(アクシオ視点)

 ヴィルエが好む香水の香りと風に揺れる長い髪は鮮明に焼き付いている。彼女と話したことも、彼女がどのような表情をしたのかも覚えている。

 だというのに、唇を重ねた瞬間の記憶だけが抜けている。


(あれはそういうことだよな……いや、別に俺は動揺なんてしていないけども)


 キスをした。そのことはわかっている。けれど彼女の唇の感触が思い出せない。

 あの時は自分の身に起こっていることを理解するのに精一杯だった。彼女とキスをしたのだとわかった時にはもう、彼女の唇は離れていた。


(……罰って、何だ。俺が何をしたんだ)


 ヴィルエは『罰です』と話していた。罰がキスだとするなら、いったいアクシオは何をしたのか。

 直前の会話を思い返してみる。


 あの時、『夜宴の黒花』として在り続ける理由や目的に関して本人に問うつもりだった。直接聞いた方が早いのかもしれない、と思ったのだ。

 だが出来なかった。彼女はきっとアクシオと二人であっても本心を語ろうとしないだろう。うまくはぐらかして逃げるのかもしれない。そう考えると勇気が出なかった。言いかけたものを飲み込んだのは、勇気がでなかっただけではなく、彼女を前にしたが故の緊張もあったかもしれない。


(ヴィルエと二人で話していると不思議な気持ちになったんだ。もっと彼女に近づきたい、近くで彼女の反応を見たい。そう思ったから近づいたが……あれがよくなかったのか?)


 思い返せば確かに、距離を詰めた時のヴィルエはいつもの反応と異なっていた。その動きは精細を欠き、少し照れていたようにも見える。しかしそれだけであの罰に繋がるとは思いがたい。


(だからってキ……キスを……あんなことをするのはおかしいだろ!)


 離れていく時のヴィルエを思い出すなり、頬が熱くなる。蘇った羞恥心を打ち消すようにため息をつくと、部屋の隅にて書類整理をしていたグレンが笑った。


「先ほどから百面相で忙しいようですが。何かありました?」

「はあ!? い、いや違う。何もない。気にしなくていい」

「そんなに動揺なさらなくても。というか顔が真っ赤ですよ」


 グレンに指摘されてもまだ熱は消えてはくれない。咳払いをして誤魔化すが、グレンはくすくすと笑っていた。


「帰りの馬車も会話が少ないようでしたから……となると、二人でデインの丘に寄った時に何かありましたかね。屋敷に着いてからも上の空なようでしたし、これはあれですか。キスとかしちゃいましたか!?」


 さも見ていたかのように言い当てるグレンに驚き、アクシオは椅子から立ち上がる。その拍子にガタンと大きな物音が響いた。


「ち、ち、違う! あれは――」

「ああ、はいはい。大丈夫ですよ。正解だとよーくわかったので」


 こういう時ばかり察しが良いのも困ったものだ。恨めしげにグレンを睨み付けるが、グレンに効いている様子はない。楽しむかのようににやにやと笑っている。


「別にいいじゃありません。相手は奥様なんですし」

「良くない。お互い好き合っているわけでもなく、恋人でもないのに」


 彼女がどういうつもりでキスをしてきたのか、アクシオにはわかっていない。罰だと言っていたことからアクシオを懲らしめるつもりであの行動なのだろう。

 ヴィルエがアクシオを揶揄って遊ぶのは今に始まったことじゃない。二人で出かけた馬車の中でも散々揶揄われたのだ。


「好き合うだの恋人だの、アクシオ様はロマンチストですね。お二人は夫婦なんですから、恋人も好き合うもないと思いますが」

「それは……その通りだが」

「大事なのはアクシオ様の感情でしょう。それを嫌だと思ったのか思わなかったのか、アクシオ様はどうだったんですか?」


 グレンに言われ、アクシオは自分自身に問いかける。

 ヴィルエからキスをされた。それに対して、自分はどのように感じたのだろう。


(驚きは……した。誰だって、あんなの想定していないだろ)


 だが、嫌だとは思ったことはなかった。キスをされた後や思い返している今だって。

 それどころか、少し悔しいと思っている。


(俺だけが、よくわからないままだったってずるいだろ)


 感触も温度も、何も覚えていない。いくら考えてもその瞬間のことが思い出せずにいる。

 それが悔しい。自分だけがわからないまま置いて行かれたようで。


(ヴィルエにとっては挨拶のようなものかもしれない。これぐらい平気と思っているかもしれない。それも……腹が立つ)


 それが揶揄いの一貫であるのなら、それほどヴィルエはアクシオよりも経験が豊富なのだ。口づけを罰にしようと思うぐらいに。


 だが違和感はある。唇が離れた後、一瞬だけ見えた彼女の表情。

 潤んだ瞳と高揚した頬。きゅっと引き結んだ唇には恥じらいがあったような気がした。言葉や態度と違い、表情にだけは表れていた。


(あれを可愛いと思うと……勝手に体が動きそうになる)


 可愛いと思ってしまった。いつも気高い彼女があのような隙を見せる。その一瞬だけで、アクシオの心には今までに知らなかった感情が生じる。

 あのように恥じらうヴィルエが可愛く、だからこそ好奇心が生じる。別の場所に口づけをしたらどのような表情になるのか。いつぞやのように可愛らしい声が聞けるのだろうか。だからもっと見てみたいと考えてしまう。


 その感情は暴力的であるが、実際に彼女を痛めつけたいとは思わない。彼女のあらゆる表情や反応を暴きたくなる。理性を欠いて衝動に駆られるようなもの。

 胸の奥が苦しい。自分が自分でなくなるような、不思議な感覚だ。


「……グレンは、そういう時どう思うんだ?」

「なんで僕に聞くんですか」

「お前はそういうの豊富だろ。情報収集の一環としてそういうことだってするんだろ? 酒場でもお前はすぐに言い寄られていた」

「そりゃアクシオ様に比べれば、僕の方が魅力ありますからね」


 ふふん、と得意げに鼻を鳴らしてグレンが言う。


 『夜梟』とは二人三脚のものである。実際には多くの協力者がいるのだが、『夜梟』の全容を知った上で動いているのはアクシオとグレンのみだ。

 主にはアクシオが暗殺任務を行う。グレンは情報収集や暗殺補佐を担当している。グレンはアクシオほど剣術や体術が得意ではない。そのためこの分担になっている。

 情報を集めるためならば色仕掛けのようなこともするため、グレンの方が女性の扱いに長けていた。


「しかし……好きな人というのは僕もよくわかりません。ほら、アクシオ様より先に恋人を作ってしまうのはなんだか申し訳ないでしょう?」

「余計な気遣いはいらない」

「ははっ。何を仰います――ですが、キスをしてきた相手が好きな人であれば、僕は嬉しくなるかもしれません。少なくとも嫌だとは思わないでしょう。もう一度してほしいと願うかもしれませんね」


 もう一度。

 その言葉がすとんと胸に落ちる。


 嫌だとはまったく思っていなかった。それよりもその時のことを鮮明に覚えていないことに苛立ち、後悔した。叶うならばもう一度。でもそのもう一度で、今度は自分の衝動を抑えていられるかわからない。


「……好き、なのかもしれない」


 ぽつりと、呟く。

 口にするつもりはなかったのだが、好きという二文字が浮かべば心に生じていた雑音が一気に片付き、視界が開けたような心地になる。

 彼女のことを知りたい。近づきたい。もう一度。その願いは全て、彼女に対する好意から生じたものだ。


 しかしそれはすぐに暗雲に覆われた。深い闇のような霧が、淡い恋心を隠していく。アクシオは自らの掌を見つめていた。剣を握り堅くなった皮膚や潰れた肉刺の後、そして今は綺麗であってもその掌は奪い取った命の温度を覚えている。


「いや……だめだな。そんなの許されない」


 暗殺者として育てられた時期がある。光の当たらぬその場所にて、闇の生き方を覚えてしまったのだ。


「何も感じず、任務を遂行するだけの道具……俺たちは、そうだろ?」


 これを聞き、グレンが俯いた。

 彼の脳裏にも、苦しい過去が過っているのだろう。


 薄らと開いた唇が過去を紡ぐことはなかったが、哀れみと後悔が混じったような声が響く。


「……あなたがそう決めたのなら。どこまでもお付き合いしますよ」


 守りたいものがある。そのために生かされてきたのだ。

 今さら、好きな者がいるからと光のあたる場所に行くわけにはいかない。


 アクシオは顔をあげた。熱は全て消え失せ、冷静な顔つきへと戻っている。


「ヴィルエには、まだあのことを話していない」

「デインの丘に寄ってほしいと言っていたのは、奥様とその話をするためだと思っていたのですが」

「俺が話したところで、あいつが口を割るとは思えない。あいつも俺も、それぐらい覚悟を決めて光のあたらない場所にいるんだろ」


 暗殺者としての生き方を止めてほしいなんて思っていない。もうこの生き方しかできないのだ。そのためならば大切なものなんて作らず孤独に生きる。その覚悟をしてきた。

 ヴィルエもきっと似ている。その覚悟を崩せるような言葉なんてお互いに知らないのだ。


 アクシオはそのように考え、ヴィルエとの対話を諦めた。これをグレンは理解できなかったらしい。もどかしさを現わすように顔を顰め、切なげに呟く。


「奥様とも話をするべきだと思います。『『夜梟』を我々以外に知られてはいけない』そんなルールなんて無視してしまえばいいでしょう。いつまでも囚われる必要はないと思っています」


 これにアクシオは答えなかった。

 アクシオの中で答えは出ている。


 ヴィルエはアクシオが『夜梟』であると気づいている。

 おそらくは初めて『夜梟』の姿を見たあの夜からずっと。


 だが『夜梟』を恐れていて黙っているのではない。彼女はアクシオが『夜梟』であることを哀れみも恐れもしていない。


(受け入れた上で、俺と共にいてくれている。今はそれでいい)


 お互いに知らぬふりをする。この状況がありがたく、心地よいと感じている。


「例の件に向けて準備を進める。弟にも――連絡を入れておいてくれ」


 セラティス王子暗殺計画。

 その日は少しずつ迫っていた。


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