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20.黄金の時間

 今回の目的地はニーベルジュ領の外れだった。昨今までは使われていなかった土地だが、最近になって農地として利用する計画が出たらしい。今も領民たちが開墾に励んでいる。


 アクシオが良い領主として勤めていることは屋敷内にいても伝わってきていた。しかし実際に領内に来てみれば違う。馬車が着いただけで多くの者が集まってくる。そこには必ず笑顔があった。


「アクシオ様! ここまで来ていただけるなんてありがとうございます!」


 馬車から降りたアクシオに、開墾計画のリーダーであろう領民が声をかけている。それをヴィルエは馬車の中からじっと見つめていた。

 アクシオはあたりを見回し、領民に告げる。


「予定よりも進みが早いな」

「皆、アクシオ様のためにと頑張っております」

「俺のためなんてよせ。皆がそれぞれの暮らしをよくするためのものだ」


 アクシオはそのように話しているが、領民たちが持つ道具はどれも綺麗なものだ。おそらくはアクシオが彼らに与えたものだろう。近隣に立つ家もしっかりとした作りである。


(……本当に良い領主なのね)


 レインブル家は領地を持たぬ貴族であった。だが、付き合いで様々な領地にいった経験はある。領地を見ればその領主がわかると言われるほど、差ははっきりと現れる。良い領主に恵まれた地であれば、皆はいきいきと笑顔を浮かべながら働き、道や家もきちんと整備される。

 それに比べ、悪心の領主がいる地は悲惨である。例えばニーベルジュ領の隣にあるネルデリア領では高い税を領主に納めるらしく、それに苦しんだ領民らは家や仕事を失い、治安の良くない一画に集まっていると聞く。


(良い領主として慕われているのに、暗殺者を続ける。どうしてアクシオ様は『夜梟』で居続けているのかしら)


 デールの屋敷から帰る時の馬車で聞いた、アクシオの言葉を思い出す。

 『お前の言う通り、暗殺者として生きる理由がある』

 ニーベルジュ領主としてではなく、暗殺者として夜に溶け込む理由があるのだ。


(その理由は何なのかしら)


 彼が目指す先が知りたい。

 暗殺者という仕事に身を捧げるほどの大きな理由を、知りたい。

 それは『国王の耳』としての諜報活動ではない。ヴィルエの、個人的な興味である。


(……悪意なく他人に興味を持つのは、初めてかもしれない)


 これまで興味を持っても、それは何らかの目的があってのことだった。しかしアクシオに対しては、ヴィルエ自身の興味が大きい。

 彼が『夜梟』である理由や目的は『国王の耳』にとって有益な情報である。だがそれだけでなく、ヴィルエが知りたいのだ。彼の過去も、理由も、目的も。すべて。


「待たせて悪かったな」


 考えごとをしているうちにアクシオが戻ってきた。どうやら用事は終わったらしく、馬車は次の地へと向かうらしい。早々に馬車が動き出す。


「構いませんわ。こちらが勝手に着いていっただけなので、お気にせず」

「だがずっと馬車で待っているのもつまらないだろう。次はお前も馬車から降りればいい」


 確かに馬車で待っているのは楽しいものではない。しかし、アクシオの隣に並んで領地を見て回るというのには少々抵抗があった。

 ヴィルエとしては一緒に見て回るのも構わない。アクシオが守る地を見てみたい。そのように思っているのだが、悪妻としての名は許さないだろう。


『悪妻だったか。アクシオ様もとんでもない奥様を迎えたものだ』


 以前、領民が告げていた言葉が蘇る。

 ヴィルエはふっと短く笑って呟いた。


「私は悪妻ですから」


 『夜宴の黒花』は冷酷で気高い存在だ。領民を無視し、遊び回る悪妻であった方が都合がいい。彼らの印象を変える必要はない。

 そう思っている。わかっている。けれど、領民たちの笑顔に囲まれるアクシオの姿が眩しく見えた。


「……ヴィルエ」


 その言葉に顔をあげれば、アクシオがじっとこちらを見つめていた。

 先ほどの発言に何かを感じたのかもしれない。ヴィルエは急ぎ、普段のように振る舞う。


「ドレスが汚れてしまうのが嫌なだけです。深い意味はありませんわ」

「……わかった」


 アクシオは何を感じたのだろう。彼の表情をちらりと盗み見るも、彼は顎に手を添えて何かを考えている様子だった。


 これ以上の追及がなさそうだと察し、ヴィルエは安堵する。

 先ほどの発言は『らしくない』ものであった。隙を見せる発言である。普段は気をつけているというのに、アクシオの前だとうまくいかない時がある。


(おかしいわ。旦那様といると気が緩んでしまうのかしら)


 揶揄って遊びたくなるだけではない。ふとした発言も、態度も、アクシオの前だとうまく出来なくなる。

 だからといって居心地が悪いとは感じない。この狭い馬車を息苦しいとは思わない。


(不思議な人ね)


***


 その後も馬車は領内の各地を巡った。

 高い位置にあったはずの太陽は低い位置に落ち、朱に染まっている。

 だが不思議なことに馬車は屋敷に向かっていなかった。ガタガタと揺れ、坂道を登っている。


「アクシオ様、着きましたよ」


 そうしてしばらく走ったところで馬車が止まった。アクシオが立ち上がる。一人で出て行くのかと思いきや、彼は急かすようにヴィルエの方を見ていた。


「じゃ、行くぞ」

「私もですか?」

「ああ。視察じゃないから、安心して外に出ていい」


 視察ではないのなら、何の用事があるのか。首を傾げながらも、ヴィルエは彼の後についていく。先に馬車を降りたアクシオがこちらに手を差し伸べてきた。


「ほら。手を掴め。気をつけろよ」

「こういう時は、女性の扱いがお上手なのね?」


 揶揄うように告げながら、彼の手を掴んで馬車を降りる。ヴィルエの発言から、手に触れていると意識したのかアクシオの頬はほんのりと赤くなっていたが、その様子をじっくりと観察する間はなかった。


 馬車を降りると爽やかな風がドレスを揺らす。小高い丘の上にあるため、領内を一望できる。夕日に染まるニーベルジュ領だ。

 整備された街道。大きく見応えのある風車。時期が来れば収穫を迎えるのだろう作物たち。のどかな田園風景は黄金の時間に包まれている。


(……綺麗)


 その美しい景色に思わず息を呑んでいた。

 綺麗だと感じてもそれを言葉にしなかったのは、日頃から『夜宴の黒花』として動じないように努めているためだ。だがヴィルエの瞳は黄金の景色を捉え、きらきらと輝いている。


「いい場所だろ」


 見蕩れているヴィルエの隣に並び、アクシオが言った。


「視察の帰りは必ずここに寄るんだ。ここはニーベルジュ領がよく見えるから気に入ってるんだ」

「そんなお気に入りの場所に、私が来てよかったのですか?」


 気に入っているのならば尚更、他人に踏みにじられたくないと思うのではないか。そんな疑問からの問いかけであった。


「言われてみればそうだな。ここに他人を連れてきたいと思ったことはなかった」

「では、私は馬車に戻りましょうか? 別に構いませんよ、私は景色になんて興味ありませんので。旦那様を一人にして差し上げます」


 するとアクシオはこちらを向いて、くすくすと笑っていた。


「よく言うな」

「何のことです?」

「俺なんて気にしないってぐらい景色ばかり見てただろ」


 言い当てられ、ヴィルエの顔がかっと赤くなる。

 確かにその通りだ。アクシオがこちらの様子を観察していたなど気づかないぐらい、この景色に見入っていた。


「……旦那様の気のせいでしょう。そんな風にじろじろと見ないでください」


 ふい、と顔を反らし、ヴィルエが反論する。弱い反論だとわかっているがこれ以上の言葉が思い浮かばなかった。


「お前と二人で出かける日がくるなんて思ってもいなかった」


 ぽつりとアクシオが呟いた。彼は遠くの方を見つめたまま。景色に見入るのではなく考えごとに耽っているのだろう。


「妻なんていらない。それでも結婚しろというのだから、形だけは結婚してやる。そんな風に思っていたのに、まさか二人で馬車に乗って出かけるなんてな」


 彼が思い返しているのは、二人が結婚する前の時だろう。

 彼はヴィルエと会っても冷たく、『俺がお前を愛することはない』とまで宣言していた。夫婦となってもその宣言通り、ヴィルエと顔を合わせようとせず、遠ざけていた。


(そうね……こうなるなんて私も思っていなかった。旦那様が『夜梟』だと知った夜から、いろいろなことが変わりだしている)


 恋人、夫婦。そういう目線で見れば、二人の変化はぎこちないものだ。言葉を交わし、食事を共にする。当たり前のような行動かもしれないが、二人にとっては大きな変化だ。

 ヴィルエが倒れた時も彼はそばにいた。今だって、二人で出かけた。


 彼もこの変化について考えているのだろうか。反応を確かめるように彼の方を見る。しかし目が合うなり、彼は切なげに微笑んだ。


「お前に興味を持つことはないと言ったのを、今は後悔してる」


 それは結婚前にアクシオが言ったものだが、後悔するほど心境の変化があったのだろう。


「では、旦那様は私を愛してしまったと?」

「あ、愛……い、いや、違う。そうじゃなくて……」


 愛だの恋だのといった単語には不慣れなのか、上擦った声音からアクシオの動揺が伝わってくる。しかし彼はすぐに咳払いをし、いつもの調子を取り戻していた。


「俺は、お前に興味がある。もっと知りたいと思っている」


 真っ直ぐな、アクシオの言葉。

 本心からそのように思っているのだと伝わってくる。


 ヴィルエはさっと視線を逸らしたが、その内心は晴れやかなものだった。油断していれば微笑んでしまっていたかもしれない。


「その程度では女性を口説き落とすなんてできませんね」

「じゃあ、どうしたらお前を口説き落とせるんだ?」

「は……?」


 すかさず返ってきたその言葉に驚き、ヴィルエは彼の方を見てしまう。

 彼は真剣な顔で、こちらを見つめていた。


「恋愛とか駆け引きとか、そういうのは苦手なんだ。だからよくわからない。でもお前に興味があって、もっと話したいと思ってる。どうしたら、いいのか教えてくれ」


 彼の言動が理解できず、ヴィルエは固まっていた。まさかヴィルエを口説き落とす方法を本人に聞くとは。

 だが、彼のひたむきな感情がヴィルエ自身に向けられていることはわかる。彼が、ヴィルエと話したいと思っていることも。


「俺は……人と話す機会が少なかったから。特に女性とはどうやって接していいのかわからない」

「だ、だからって本人に聞くなんてどうかしてますわ!」

「そうかもな。でも、お前のことをもっと知りたいんだ」


 影が、歩み寄る。草を踏みしめる音は、彼がこちらに近づいてくることを示していた。

 切なく微笑み、彼の瞳に映っているのはヴィルエだけ。


(女性が苦手だなんて言いながら、こうして迫ってくるなんてずるいのよ)


 距離が縮まっていく。頬をかすめる風の冷たさもわからなくなっている。それでもアクシオから視線をそらせない。


「ヴィルエ。俺は――」


 つま先が触れているのではないかというほど近くに来て、彼がこちらに手を差し伸べる。恥じらい気味に告げようとしているその言葉に、心音が急く。


 これが他の男であるならば、うまく躱しているだろう。これほどの近さを許していないかもしれない。

 だというのに、逃げることができない。アクシオなら許してもいいかと気が緩んでいる。

 花が咲いているわけでもないのに空気を甘く感じ、彼とこの甘やかさに囚われている。


(ま、まさか……キスとか、そういう雰囲気の……)


 初めてであるだけに、身が強ばる。けれどそういうのを感じさせる雰囲気であることはヴィルエにもわかっていた。


(で、でも! 相手は私の夫なんだから、これが当たり前かもしれないし!? そもそもこういうことが今までになかったのがおかしいのよ。べ、別にこの程度で動じてなんていないわよ。たかがキスの一つや二つぐらいで『夜宴の黒花』が動揺するわけないでしょう!? 別に流されてるわけじゃないもの。相手は旦那様だもの。それよりもこんなに近づいたら旦那様に心臓の音が聞こえてしまうのでは!?)


 思考はぐちゃぐちゃになって、冷静になれない。

 その時がいつ訪れるのか。身を強ばらせて彼の瞳を見つめるヴィルエであったが――


 彼の手は宙を舞うのみで、するりと落ちた。


「……だめだな。うまく話せない」


 はあ、とため息まじりに彼が呟く。

 その言葉にヴィルエが感じていた甘い空気も霧散する。視界には、彼が情けなく笑う姿だけが映っていた。


「大事な話をしたいのに勇気がでない」


 キスをするような距離だと考えていたのが恥ずかしくなるほど、アクシオはあっさりとしている。それどころかこれほど距離を詰めたのは大事な話が理由だという。


(だ、だ、大事な話でこの動きは思わせぶりなのよ! って、そうじゃない。今の私は良くなかった。何に期待してしまったの?)


 自分自身が恥ずかしい。まるでアクシオからの口づけを期待して待つかのように、動くことができなかった。


(私は旦那様の妻だけど飾りの妻よ。悪妻なの。『夜宴の黒花』なの。今みたいな場面は絶対にダメ。私にはやるべきことがあるの。こんなことをしている場合じゃない)


 一歩後退り、アクシオから距離を取りながら、心の中で反省する。

 まだ熱の残る頬を隠すようにそっぽを向いていると、アクシオが呟いた。


「暗くなる前に馬車に戻るか」


 先ほどの緊張も動揺もヴィルエだけだったのだろうか。そう考えるとアクシオに腹が立ってくる。


(でも少しぐらい、仕返しをしてもいいと思うのよね)


 あれほど近くにいたのに、彼は何も感じていなかったのだろうか。ヴィルエだけがあの緊張を味わったなんて許せない。


「旦那様」


 歩き始めたアクシオに声をかける。

 この先に起こることをまったく予想していないらしく、彼はこちらに振り返った。

 だが、想定している仕返しをするには、彼は背が高すぎる。それもまた腹が立つ。


「……少し屈んでもらえます?」

「どうしてだ? 何かあったのか?」

「いいから黙って」


 強めの口調で告げる。アクシオは困惑している様子だったが、渋々その場に膝をついた。


(綺麗な白銀の髪……顔だって、こんなに格好良いのに)


 彼の様子を観察していると悔しくなる。それなのに女性が苦手だのうまく話せないだの、そして先ほどの思わせぶりな行動だ。


 どうにかして彼を困らせる。悪戯心に突き動かされ、ヴィルエは彼の頬に手を添える。


「なっ――」


 それから、彼の唇を奪った。

 彼の唇は乾いていて、でも柔らかい。頬に触れた指先よりも彼の体温を感じる。癖になりそうなほど柔らかい感触と甘い味がする。


(……私だって、初めてなのに)


 キスをするのは初めてだ。周囲には経験豊富そうに見えるかもしれないが、実のところは唇さえも他人を許していない。けれどアクシオなら、いいかと思ってしまった。


(さっきの空気は絶対にそうだったのよ。だからこれは旦那様が悪いの)


 心の中でアクシオに責任をなすりつけ、それから唇を離す。

 見れば想像通りに、アクシオは顔を赤くして固まっている。まさかキスをするなんて思ってもいなかった。そんな表情をしている。


「……これは罰です」


 硬直しているアクシオを見ていると、ヴィルエの心にも恥じらいが生じてくる。思えば、随分と大胆なことをしてしまった。もしかするとアクシオと同じように、ヴィルエの頬も赤くなっているのかもしれない。


 そこでようやくアクシオが動き出した。魚のようにぱくぱくと唇を動かしているが、かすれ気味の声から彼の動揺が窺い知れる。


「い、今の……ば、罰って……」

「行きますわよ」


 触れていた唇の感触が、まだ焼き付いている。これ以上アクシオと向きあっていられず、ヴィルエは先に歩き出した。


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