1.避けられぬ婚姻
時はヴィルエがニーベルジュ家に嫁ぐ前に遡る。彼女がヴィルエ・レインブルであった頃だ。
「セラティス王子! オルナ様! おめでとうございます!」
ガードレット王国の王城に集まった者たちは、王太子の婚約発表に歓声をあげていた。
中には憧れのセラティス王子を射止められなかったと悔しい気持ちを抱く令嬢もいたことだろう。しかし、堂々と並ぶ二人の姿に、不満の声はあげられなかったようだ。
(ふふ。オルナったら、あんなに嬉しそうにして)
ヴィルエは少し離れたところから、喝采を浴びる二人の姿を眺めていた。扇を開いたのは、綻びそうになった口元を隠すためだ。妹の晴れ姿を眺めて微笑んでいるなど、周囲に知られるわけにはいかない。
(今日までの苦労が報われるようだわ)
セラティス王子の隣に立っているのは婚約者のオルナ・レインブル。彼女はヴィルエの妹だ。
これまで長い間、セラティスとオルナは互いに想い合っていたが、なかなか結ばれずにいたのだ。
二人を引き裂かんとする様々なトラブルを避けるべくヴィルエは暗躍してきたのだ。夜会があれば必ず顔を出して伝手を作り、欺瞞だらけの貴族を相手に情報を探り、時には不穏な計画を立てる貴族らを潰してきた。
オルナを消してでも娘を嫁がせようとする侯爵家や、伯爵令嬢と結婚することを許さぬ宰相。セラティスとオルナの前に立ち塞がろうとする者がいれば、先回りして彼らを潰していく。
それがこれまでのヴィルエの日々であった。
(結果として妙な二つ名を得てしまったけど、二人が結ばれるなら構わない)
大事な妹が、心から慕っている者と結ばれるように。
そのため影で暗躍し続けてきたヴィルエは、気づけば妙な二つ名を得ていた。
レインブル伯爵令嬢ヴィルエ――またの名を『夜宴の黒花』。
黒く長い髪にガーネットの瞳。オルナが柔らかく愛らしい娘であるのなら、ヴィルエは鋭い棘を隠し持つ薔薇である。だが容姿だけが、この名を作り上げたのではない。
国内で起きる出来事を全て掌握し、その指ひとつで国を動かすと語られている。秘密結社を従えているだの王族の弱みを握っているだの様々な噂が流れているが、誰も真相を知らない。
政治的相談から資産運用、領地の細かなトラブルまでヴィルエに相談すれば解決するものの、一度でも彼女の機嫌を損ねれば、その貴族は没落する。証拠を残すことなく思いのままに人を操るヴィルエに畏怖する貴族は少なくない。
夜会に現れても踊ることはなく、端に座しては参加者の様子を観察する。持ち前の美しさは花のようだが、自ら日陰を好み、黒や紅のドレスを選ぶ。近づく者がいても彼女の機嫌を損ねてしまえば容赦しない。そのことから『夜宴の黒花』と呼ばれるようになってしまった。
ヴィルエの行動は全てオルナが幸福になるためのものだが、それを知るのはごく一部のみ。知らぬ者から見れば、ヴィルエは冷酷な令嬢に見えてしまうのだろう。
それでもヴィルエにとっては構わない。汚れ役を引き受け、悪だと罵られても構わない。
大切な妹が幸せになるためならば、何だってできる。
(……いけない。泣いてしまいそう)
小さく咳払いをしてヴィルエは瞼を開ける。これ以上浸っていては、感動のあまりに泣き出してしまいそうだが、『夜宴の黒花』である以上、そのような姿は見せられない。
ヴィルエは会場にいた父のもとに向かう。父は、レインブル伯爵に取り入ろうとする者たちに囲まれていた。オルナが王族に嫁ぐと決まったため、早めにご機嫌を伺おうとしているのだろう。
「ご歓談中、失礼します。そろそろお時間ではございませんか?」
父を取り囲む輪に入って声をかけると、貴族らはヴィルエの姿に口を噤んだ。
彼らは父よりもヴィルエを恐れている。ここで引き留め、ヴィルエの機嫌を損ねる方がまずいと判断したのだろう。
こういう時ばかりは『夜宴の黒花』という名に感謝したくなる。何もしなくとも、相手から恐れてもらえる。
「おお、ヴィルエか。待たせて悪かったな――では皆様、我々は失礼いたします」
周囲の者たちに告げ、父がこちらにやってきた。
父であるオスカー・レインブルは、この場から解放されたとほっとしているのだろう。他の者にはわからないだろうが、ヴィルエにはそう見えている。
婚約発表後に話があると、国王陛下が告げていた。その時の国王陛下の様子から見るに良い話のように思えるが、ヴィルエの表情は硬い。
(箱の中身は蓋を開けるまでわからないもの。気を引き締めて挑まないと)
婚約発表されても、セラティス王子とオルナが幸せになるという目的は達成されていない。ヴィルエの役目はまだ終わっていないのだ。
ホールの奥にいる国王陛下のもとに向かう。そばには王妃だけでなく、セラティス王子とオルナも揃っている。
そこに現れたヴィルエとオスカーの姿を見て、国王陛下が顔を綻ばせた。
「待っていたぞ。レインブル伯爵そしてヴィルエ嬢も」
「素敵な婚約発表にうっとりし、ご挨拶が遅れてしまいました。セラティス王子、そしてオルナ。婚約おめでとうございます」
ヴィルエは完璧な礼をし、二人にも祝福の言葉を贈った。
壇上で行われるこのやりとりに、ホールに集まった者たちにとって注目すべきものだろう。王族だけでなく婚家のレインブル伯爵家も揃っているのだ。多くの視線を浴びているからこそ、完璧に振る舞わなければならない。
ヴィルエは優雅に微笑む。それは愛らしいものではなく、鋭さを秘めた悪役の笑み。棘を隠し持つ薔薇のように存在しなければならない。
「今日の婚約発表も恙なく進めることができた。これもレインブル伯爵のおかげだな」
「ありがたきお言葉です。不肖の娘ですがよろしくお願いいたします」
「うむ――ところでヴィルエ嬢なのだがな」
簡単に挨拶をして終わり、と想定していたが、国王の視線はヴィルエに向けられた。
「ヴィルエ嬢もそろそろ良い年頃だろう。どうだね、縁談などは」
「縁談……私が?」
オルナよりも三つ年上のヴィルエである。これまでに縁談の話が舞い込んできたことはいくつかあったものの、どれも丁重にお断りをしてきた。その理由はオルナの恋路を守るためである。嫁いでしまえばレインブル家を出ることになり、自由に身動きができなくなると考えたためだ。
ヴィルエはにっこりと微笑んだ。答えはもちろん決まっている。婚約が発表したからといって油断はできない。自分はレインブル家に残り、『夜宴の黒花』として恐れられながらも影からオルナを支えるべきだ。自分の結婚なんて後でじゅうぶん。
だから断る。そのつもりが、ヴィルエより先に口を開いたのは国王だった。
「妹の縁談だけが進むというのも心苦しかろう。そなたさえよければ紹介したい者がいるのだが」
「私まで気に掛けていただけるなんて国王陛下のお心に感謝いたします。ですが私は――」
「いやいや、ヴィルエ嬢!」
断ろうとすれば口を挟まれてしまう。国王はこちらに詰めより、さらにはヴィルエの両手をがっしりと握りしめた。
「どうか頼む! この話を何とか進めてもらいたい」
「お、お待ちください。私は……」
「相手はアクシオ・ニーベルジュ伯爵という若くして伯爵位を持つ男なんだが、ヴィルエ嬢と同じく結婚する気がなくてだな――」
こちらの話を聞かず、国王は話を進めていく。その焦り方からして、ヴィルエのために縁談を進めたいのではなく、別の思惑が絡んでいるのだろう。
(でもこの話を進めてしまったら、私は結婚してしまう?)
心音が急く。これまで誰かと婚姻関係を結ぶなど考えていなかった。
幼い頃は恋愛に夢を見ていたかもしれない。セラティスとオルナのように互いに想い合い、困難をも乗り越えるような恋に憧れを抱いた日々は確かにあった。だが二人を応援する気持ちが膨らむごとに、ヴィルエは期待を捨てていった。そうしなければ、影に徹することなどできなかったのだ。
周囲の様子を無視し、ヴィルエ本人の気持ちのみを優先するならば、今は婚姻なんて考えている場合ではない。オルナはまだ婚約発表をしたばかり、結婚式まで何があるかわからず、結婚後だって不安がある。
だが、ここで縁談を断れば国王の機嫌を損ねてしまうかもしれない。彼だってヴィルエが『夜宴の黒花』と呼ばれていると知っているだろう。そんなヴィルエ相手に無理を通して話を進めようとしているのだ。裏には何かしらの事情があるのかもしれない。
(オルナのためにも断るわけにはいかない。覚悟を決めるしかないわ)
これは覚悟を決めなければならないか。そう考えているとオスカーがこちらに寄ってきた。国王が縁談相手について熱く語っている今なら気づかれぬと判断したのだろう。
「この話を断るのは厳しいだろうな」
「ええ。わかっております」
「……お前には苦労をかけるな」
申し訳ないとばかりに顔を顰めた父に、ヴィルエは柔らかく微笑む。自分なら心配ない。これまでだってうまくやってきたのだから。
「国王陛下。ぜひ、その縁談について詳細を教えていただけますか?」
こうして『夜宴の黒花』と恐れられたヴィルエ・レインブルの婚姻が決まったのである。




