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15.墜ちていた(アクシオ視点)

 なぜ彼女に声をかけたのか、アクシオ自身もわかっていない。


 当初の予定ではヴィルエを泳がせるつもりだった。

 彼女がレインブル家から連れてきたミゼレーは、ヴィルエの命令によって動く情報収集の駒だと睨んでいる。ミゼレーが情報を入手しやすいよう、ネルデリア領の酒場に『夜梟』の噂を広めておいたのだ。

 酒場の店主よりミゼレーらしき客が来ていたことや『夜梟』に関する話を聞いていたことは確認している。


(……狙い通りのはずなのに、どうしていやだと思ってしまったんだ)


 ヴィルエ宛にデール・クラウザーからの手紙が届いていたと報告を受けた時から、アクシオの心はざわついていた。内容までは確かめていないが想像はつく。ヴィルエがデールに接触し、その返答なのだろう。


 予定では黙って見ているつもりだった。そうしてヴィルエがどのような行動をするのか、彼女の目的を探るつもりだった。

 だというのに――落ち着いてなどいられなかった。


(あんなに着飾って、どういうつもりだ。あいつはデールがどういう男かも知らないのか)


 アクシオの拳は怒り任せに執務室の机を叩く。ドンと鈍い音がし、机に乗っていた書類が一瞬ほど宙に浮いた。

 外はすっかり暗くなっている。今頃、ヴィルエが乗った馬車はクラウザーの屋敷についた頃だろう。彼女がデールの前でどのような顔をしているのか、それを想像するだけで苛立ちが増す。


「え。そ、そんなに荒ぶってどうしたんです?」


 予想外の声に驚き、ドアの方を振り返れば、グレンが入ってきたところだった。彼の反応からして机を叩くところも見ていたらしい。


「……別に。苛立っていない」

「机を叩くほどの大荒れなくせに苛立っていないと言われてましても」


 グレンは呆れた様子でそう話し、こちらにやってくる。彼の指定席となりつつある、机隣の椅子に腰かけてからこちらを向いた。


「ヴィルエ様のことでお悩みですね?」


 そのように問いかけているが、グレンは既に見抜いているのだろう。付き合いの長さのせいか、隠しごとをしてもグレンにはすぐ気づかれてしまう。

 今回だってわかっているはずだ。そう考え、アクシオは何も答えなかった。


「泳がせるなんて格好をつけるからこうなるんですよ。この計画を進めようとしたのに玄関で引き留めてしまうなんて、アクシオ様の行動は矛盾してますからね」

「わかってる……って、見ていたのか」

「そりゃもう、ばっちりと」


 玄関でのやりとりを見られていたのかと思うと恥ずかしくなる。あの時は怒りよりも悲しみの方が勝っていた。

 ヴィルエが敵だと判明してしまえば、彼女を殺さなければいけなくなる。どうか敵ではないようにと願っていた。だからデールのもとに行かなければ良いと考えていた。

 だというのに――彼女は引き返さなかった。

 あとは結果を待つしかない。彼女は何を目的としているのか。アクシオと同じ方向を向いているのか、それを確かめるだけだ。


「……敵であってほしくないと恐れているのですか?」


 アクシオ自身も、答えが出ていない。

 泳がせると考えていたのに気づけば彼は玄関に向かっていた。出かける前のヴィルエを一目でも見たくなっていた。頭ではわかっているのに、体は勝手に動くかのように。


 本能と理性。その二つがあるのならば、あの時のアクシオは本能に従っていたのかもしれない。頭ではだめだとわかっているのに、ヴィルエと引き留めようとしてしまった。


 もしかするとグレンが問いかけた言葉は当たっているのかもしれない。敵であってほしくないと心のどこかで願っていたのだろうか。


 アクシオは答えなかったが、グレンにはその無言が何を意味するのか伝わったのだろう。彼は柔らかく笑い、からかう時とは違う、長年の友人として穏やかな声音で告げた。


「もしも奥様が敵ではないことを願ってしまったのでしたら……好きなのかもしれませんよ。それか、気になっているのかもしれません」

「俺は誰かを好きになるとか愛するとか、そういうの許されない立場だろ」

「そう言いながらも、引き留めてしまったではないですか」


 反論され、アクシオは言葉を呑む。

 自分が『夜梟』となった時から理解している。頭はそうわかっているのに、できなかった。グレンの言う通り、彼女を引き留めていた。


(……好き、なのかはわからない)


 その感情は今もよくわからない。人を好きになるというのがどういうことなのか、これまでの人生を振り返っても答えは欠片も見つからない。


(気になっているのかもしれない。それは……認める)


 はじめは警戒のつもりだった。だというのに、ヴィルエと接する機会が増えていくたび彼女のことを知る。

 巷で言われているような『夜宴の黒花』として振る舞う時もあれば、怪我を労る時や、涙を流す場面だってある。頬を赤らめていた時のヴィルエは忘れられず、底なし沼のように恐ろしかった。恥じらうヴィルエをもう一度間近で見てしまえば、今度はきっと我に返れない。アクシオの知らない感情に墜ちて、溺れてしまう。自分自身が別の生き物に変わってしまうような、そんな恐ろしい沼だ。


(でも、ヴィルエは自分でデールのもとに行くと決めた。あいつが敵かどうか、黙って見定めるべきだ)


 これ以上ヴィルエに踏み込んではならない。そう考え、彼女のことを頭から振り払おうとする。


「デール・クラウザーについては悪い噂がたくさん出ています。ただの遊び相手にしては悪評が多いかもしれませんね」


 持ってきた資料に目を通しながらグレンが言った。

 彼には情報収集も依頼している。最近の事情があり、デール・クラウザーの身辺調査も依頼していた。


「特に女性関係での問題は多いようです。どれもクラウザー家の名を使ってもみ消しているようですが……彼の屋敷に招かれた女性が薬を飲まされて乱暴をされるだの、軟禁されるだの、聞こえてくるのはひどい話ばかりですよ」


 何気なく聞くふりをしながらも、鼓動が急く。


「最近は落ち着いていたようですが、過去に泣かされた令嬢も多いとか――」


 苛々とする。なぜそんな男のもとに向かったのか。ヴィルエに警戒心はないのだろうか。


(俺の前で、あんな顔をしたくせに)


 彼女の、戸惑い震えた声が蘇る。


『……放して』


 我に返らなければ、きっと彼女の手を離さなかった。

 デール・クラウザーの前で、彼女はあんな風に頬を赤らめるのだろうか。


(忘れろ。俺は、俺のやるべきことをやるだけだ)


 ぐっと目を瞑り、頭からヴィルエのことを追い払う。

 刻限は迫っている。彼女が敵かそうではないのか、見定めるための時間だ。


「行くぞ。馬車の用意を頼む」


 引き出しの奥から木箱を取り出す。その中に納められているのは『夜梟』の仮面だ。

 これよりアクシオは『夜梟』として行動をする。


 ヴィルエが敵なのかそうではないのか――彼女の行動によって、その命を奪わなければならない。

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