12.表裏(アクシオ視点)
小さな体が床に倒れる。湿度を含んだ地下室の床は冷えているくせに不快で、顔や体に張りついて気持ち悪い。下水の匂いもする。だが立ち上がるような気力はなかった。
「その程度で弱音を吐くようでは生かしてはおけないぞ」
男の声と共に、背に衝撃が走る。幼子の小さな背に革靴がのしかかり、それだけではなく力一杯に靴底をこすりつけてくる。その重さと床に挟まれ、子どもは呻き声をあげた。
「ご、ごめんなさ……」
「許しを請うな!」
床から無理矢理に引き剥がされた体はふわりと浮き、壁にぶつかる。もといた場所には、子どもを蹴り飛ばしたのだろう男の革靴が見えた。
壁にぶつかった衝撃で口の中が切れ、血の味がする。今にも吐き出したくなるが、そのようなことは許されないとわかっている。
耐えるしかない。我慢するしかない。
男は再びこちらに近寄ると、子どもの髪を掴んだ。そして己の目線と同じ高さまで持ち上げる。
子どもの体は痩せ細り、軽々と持ち上げることができた。子どもが傷だらけであっても男は容赦しない。
「痛みを感じるな。この程度の傷で苦しがってはならない」
「……はい」
「お前は何も感じず、任務を遂行するだけの道具だ。それがこの国の――」
男の言葉は最後まで紡がれることがなかった。
血の味も言葉も地下室も、すべてが霧散する。
***
「はあ……い、今の……また……」
気づいた時にはアクシオは身を起こしていた。
見慣れている屋敷のベッドと、天井。全身はいやな汗にまみれ、息があがっている。
あたりを見回して、先ほどまで見えていたものが夢だったと確かめるなり、アクシオはため息をつく。汗で濡れた前髪をかきあげた。
(……最悪な夢だ)
あの夢を見るのは久しぶりだ。それもこれも、腕の怪我のせいだろう。
アクシオは自らの左腕に視線を落とす。
昨晩、『夜梟』として仕事に出ていた。ターゲットは、デール・クラウザーに雇われたという暗殺者である。たいした仕事もできないくせに、デールに接触して依頼を受けたらしい。
無事に任務は成功したが代償もあった。彼を殺す際、一瞬の隙をつかれて反撃されてしまったのだ。そこはさすが暗殺を生業にしていた者といったところか。
今日に限らず、暗殺業務で怪我をすることは数え切れない。そのたびに自分で手当てをしてきた。
(この程度の傷、だろ)
痛みを感じても、血が流れても、声をあげてはいけない。苦しいと思ってはいけない。
そのように考えているため、怪我をしてもグレンに伝えたことはなかった。恥ずかしいものだと思っていたからだ。
だが昨晩は違った。初めて、傷に触れる者がいた。
(……あんな風に優しくしてもらえるのは、初めてだ)
怪我のことがあり後始末をグレンに任せて先に屋敷に戻ったのだが、アクシオは油断してしまった。疲労と怪我の痛みに気を取られ、ヴィルエが起きている可能性を忘れていたのだ。
『夜梟』の姿のままであり、ついには彼女を殺さなければならないかと覚悟をしたのだが――彼女の取った行動は意外なものだった。
彼女はアクシオが怪我をしていても呆れる様子なく、それどころか胸を痛めるかのような顔をしていた。手当てをすると言ったくせに慣れていない様子ではあったが、精一杯のことをしてくれていたのは伝わっている。
ヴィルエは医者に診せろと言っていたが、今回もそのつもりはない。彼女の目を盗んで部屋に戻った後、アクシオは自分で傷口を縫い合わせた。体のあちこちにある傷はそのように自分で処置したものが多い。
(泣いていた……のは見間違いじゃないはずだ)
まさか『夜宴の黒花』が涙を流すとは思わなかった。その理由がアクシオの怪我にあるのか、それとも別のものなのかはわからない。近くにいても彼女の心は見えていない。
ヴィルエのことは理解できない。
冷たくあしらうような態度をし、時にはこちらを傷つけることだって言う。そのくせ、突然別の一面を見せてくるのだ。
上流階級の男たちを手に取る悪女と思いきや、顔を赤くして恥じらう時だってある。本人はそれを認めていないようだが。
いつぞやの夜に見たヴィルエの姿が脳裏に浮かぶ。
(かっとなって迫ってしまった俺も悪かったが、あいつだって顔を赤くしていただろ。なのに次の日は平然としているし)
生意気なことを言い、人を翻弄してばかりではない。あのような一面だってある。それを知ってからというもの、ヴィルエの行動から目が離せなくなっていた。
人のことを好き勝手に言ったくせ、ヴィルエこそ男に慣れていないんじゃないのかと疑っている。もしもアクシオの考えている通りなら――ふっと小さく笑う。
(もっと見てみたいかもしれない……なんて、変な考えか。俺らしくないな)
あの時のヴィルエの表情が頭から離れない。常に気高くあるはずの彼女の、初めて見る表情だった。取り込まれ、引き返せなくなるような感情に支配されていた。我に返らなければ彼女を離そうとしなかっただろう。
怪我の手当てだけではない。こんな風に、他人のことばかり考えてしまうのも初めてだ。
ヴィルエが来てからというもの、アクシオの世界が少しずつ変わっている。
***
予定よりも早く目覚めてしまったため、一人で朝の支度をし、執務室にて報告書に目を通す。しばらく経つと、グレンがやってきた。
「今日は早起きですね」
「まあな」
夜は『夜梟』として出かけることが多いため、領地に関する仕事は昼間に片付けなければならない。書類に視線を落としたまま、アクシオはグレンに問う。
「ヴィルエは起きたのか?」
昨日のことがあり気になっただけなのだが、グレンは別の意味合いで受け取ったらしい。彼は「ははーん」とわざとらしく笑い、にやついている。
「すぐ奥様のことを聞いてくるなんて、これはもうめろめろですね」
「起きているか聞いただけだろ」
「本当は好きだけど恥ずかしいからそっけないふりをする……つんでれってやつですかね。いや、それとも好きだけど認めていないだけのピュア初心男子かもしれません」
「訳の分からないことを言うな。それで、あいつは起きてるのか?」
からかうようなグレンの態度は鼻につくが、いちいち相手をするのも面倒である。さらりと流して再度問うと、グレンは頷いた。
「もう起きているようですよ。何も伝えていませんが、厨房では二人分の朝食を用意してるみたいですね」
「……わかった」
はじめは監視のつもりであったが、今ではヴィルエと共に食事をするのも慣れてしまった。屋敷の者たちもそのつもりでいるのか、こちらが指示をしなくても食堂に二人分の食事が並んでいる。
食事についても異論を挟まないアクシオの様子を、グレンは微笑ましく見つめている。そして彼にしては珍しくからかいのない声音で、しみじみと呟いた。
「最近のアクシオ様を見ていると、奥様を殺さなくてよかったと思っていますよ」
その言葉にアクシオは手を止める。
そうだ。『夜梟』の正体を知られたからと彼女を殺そうとしていたのだ。そのことを思い出すと胸の奥が苦しくなる。グレンに止められず彼女を殺していれば――いつまでもアクシオは一人で食事を取っていたのだろう。
そうしなくてよかった、と安心する気持ちがある一方で、そのように考えてしまった自分自身に違和感が生じる。
(……でも、いつかその時が来るかもしれない)
暗殺者である以上、依頼を受ければその通りに動かなければいけない。それがたとえ、ヴィルエの命を奪えというものでも。
この手で彼女を殺さなければいけない日が来るかもしれない。
(だから、余計な感情を持ってはいけないんだろうな)
何も感じず、任務を遂行するだけの道具。以前男に言われた言葉が蘇る。道具として深く考えてはいけない。任務を遂行するためだけに生かされているのだ。
「依頼があれば、俺はヴィルエを殺す。あいつが『夜梟』の正体に触れようとすれば容赦なく殺す」
アクシオの言葉に、グレンは目を丸くしていた。
「本当にそれで……いいんですか?」
「ああ。今だってそうだろ。あいつはデール・クラウザーに接触している。余計なことをして場をかき回すようなら――容赦しない」
ヴィルエと接する機会を増やしたのは、彼女を知るためではない。彼女を監視するためだ。
「ですが、奥様の目的は不明です。デール・クラウザーに接触する理由はまだわかりませんよ」
「なら確かめればいい」
引き出しの奥から一枚のコインを取り出すと、それを指で弾く。
宙を舞うのは『夜梟』が持つ三日月と梟のマーク。
「ヴィルエが『夜梟』に接触する術を探るようなら、その通りにさせる」
「は? いったい何を……」
「『夜梟』のアジトはネルデリア領にあると、情報を落としてやる」
吃驚して固まっているグレンを無視し、アクシオは戻ってきたコインを再び宙に弾く。
「予定していた暗殺者を殺されたデール・クラウザーは焦っているだろう。現場に残されたコインから『夜梟』に依頼したいと考えるはずだ。だがデールは『夜梟』に接触する術がない――そこでヴィルエがどのような行動に出るのか、それが答えだ」
デール・クラウザーが企んでいるのはセラティス王子の暗殺。これをヴィルエはどのように考えているのか。
セラティスを殺すべきと思っているのか、それとも守るべきと思っているのか。
答えは二つ。
アクシオは墜ちてきたコインを掴む。上に向いているのは表面かそれとも裏面か。
(だから、親しくなってはいけない。近づきすぎてはいけない。俺はやるべきことをやらなきゃいけないから)
心の奥底では、求めている結果がある。ヴィルエも同じ方向を向いていてほしいと願ってしまう。だがそれは暗殺者として捨てなければならないもの。
コインの結果は見ず、それを引き出しの奥にしまって鍵をかける。余計なことを考えないために。
「結果によってヴィルエは敵だ」
そう語るアクシオの顔に感情はない。何も考えず、任務を遂行するだけの暗殺者の瞳をしていた。




