10.『夜梟』との逢瀬
夜遅くになり、屋敷の煌々とした明かりも減る。
使用人たちは夜遅くまで応接室にいるヴィルエを気遣っていたが、ヴィルエは応接室にいたいと答え、使用人室に戻っていく彼らを見送った。
屋敷内の明かりは最低限まで落ち、廊下も薄暗い。応接室にて使っていた大きな蝋燭は何度も取り替えている。
(なかなか戻ってこないわ)
ミゼレーが戻ってくるまで待っていたい。
夜が深まると屋敷内も静かになり、些細な物音も聞こえるようになる。本を開いてはいるが他のことに気を取られ、なかなか読書は進まない。文字を追っても頭に入っていく気がしなかった。
そしてページをめくろうとした時である。
かたん、と玄関の扉が動いた。聞こえた音にヴィルエは勢いよく反応し、本を閉じる。
そして玄関の方を見やる。薄暗い中に影が一つ。フードをかぶっているように見えるがよく見えない。
「……ミゼレー? 戻ってきたの?」
燭台を手に持ち、ゆっくりとその方に向かう。
そうして近づき――明かりが照らしたのは紅の三日月と梟の模様が刻まれた無機質な仮面。
(『夜梟』……!)
おそらく彼はヴィルエがいないと思い込んでいたのだろう。応接室の明かりは暗くしているため外からもわかりにくい。このような夜に誰も起きていないと思っていたのかもしれなかった。
「……っ、お前は」
夜梟はこちらに気づいている。仮面をつけているため彼の表情まではわからないが、視線が交差していることは感じている。
またしても彼の姿を見てしまった。今度は言い逃れができないかもしれない。ヴィルエは逃げようと後退りをし――だが、夜梟の動きは想像と異なるものだった。
彼は剣を握りしめ、おそらくはヴィルエを斬って口封じしなければと考えたのだろう。だが、それはうまく行かず、彼は足元に剣を落とした。
すぐに拾おうとしていたが、動きが鈍い。
「……く、っ」
何かに耐えているかのように苦しげな声。剣に伸ばそうとした左手は震えていた。
(……怪我をしてる?)
フードのついた黒い外套を着ているがあちこちには血が飛び散っている。返り血なのだろうと思っていたが、よく見れば一部の生地が裂けている。そこから彼の左腕だろう部分が見えるが外套だけでなく、中に着ている服も斬られているようだ。その周辺は返り血ではないのだろう赤い血に塗れている。
「不審者……ですわね」
倒れたふりをするべきか、それとも叫び声をあげて人を呼ぶべきか。取るべき行動はわかっているのに、彼の怪我から目が離せなかった。
(この人は前にも怪我をしていた。今回も……)
初めて夜梟の姿を見たときも、彼は怪我をグレンにも言わずに隠しているようだった。おそらくは今回も、この怪我を隠すつもりでいたのだろう。
(もしかすると、私が起きていることにも気づかないぐらい、深い傷なのかもしれないわ)
堂々と玄関から戻ってくる。それも仮面をつけたままだ。アクシオの不注意だと言いたくなるが、そうせざるを得ない理由があったのかもしれない。たとえば怪我が痛むであるとか。
なぜアクシオが怪我を隠そうとするのか、ヴィルエには理解できない。だが彼がそれを隠そうとするのならば――ヴィルエは彼に向けて告げた。
「……こちらに座ってくださる?」
「は――何を」
「突然屋敷に入ってくるなんて不届きな方ですけれど……その怪我は手当てした方がいいと思いますわ。だから、こちらへ」
そう言ってヴィルエは彼に背を向け、応接室に入っていく。夜梟はまだ、ヴィルエの行動が信じられないのかその場に立ち尽くし、こちらの様子を観察しているようだった。
ヴィルエは救急箱を手に取ったが、それでもまだ夜梟はやってこない。痺れを切らし、彼に告げる。
「今宵は見なかったことにしてあげます。怪我の手当てをしたら早くお帰りなさい、不審者さん」
アクシオだと気づいていないかのように装い、夜梟に言う。
これを聞いて、ようやく夜梟の足が動いた。おずおずと彼がこちらにやってくる。
「見ず知らずの者が相手でも、怪我の手当てをするのか?」
「どうでしょう。でも、剣を掴む力もないほど痛がっているように見えましたから」
「痛がってなど――」
夜梟はかっとなって反論しかけていたが、ヴィルエは無視して彼の左腕をぎゅっと掴む。その強さに彼は言いかけたものを飲み込むしかなかった。
外套をめくり、傷口を確かめる。鋭利な刃物で斬られたような傷だ。傷は深く、まだ血が滲んでいる。
だが気になったのはその傷だけではなかった。腕のあちこちに、古傷の跡が残っている。その数は多く、暗殺者だからという言葉では片付けられない。
(初めて、旦那様の身体を見たかもしれない)
腕だけではあるが、そのように傷だらけだとは知らなかった。ぞっとしながらも、その感情を押し殺して手当てを始める。
手当てをすると言い出したのは自分であるが、ヴィルエはそこまで慣れていない。明日の朝になれば医者に診てもらった方がよいだろう。
そう考えていると、夜梟が俯いたまま言った。
「お前は、俺が怖くないのか?」
その問いかけにヴィルエは即答する。
「もちろん怖いわ。けれど、放っておくのは違うでしょう? 消毒するので、沁みますよ。痛かったら袖を噛むなどして耐えてくださいね」
「は? 別に俺は――」
反論しようとした彼を無視し、消毒薬を含ませた綿で傷口を撫でる。
瞬間、彼は声にならぬ呻き声をあげ、俯いてしまった。やはり痛かったのだろう。しかし情けない姿を見せたくないのか、歯を食いしばって耐えているのかもしれない。
「はい。あとはガーゼを当てて包帯を巻きますね。止血として強めに巻きますから。でも素人のやることですから、朝になったら医者に診ていただいた方がよろしいかと」
「なぜこんなことをする? 俺は、お前の屋敷に勝手に入った不審者で、こんな姿をしている。怪我なんて放っておけばいいだろう」
確かに、とヴィルエは心の中で頷いた。彼の言うことは正しい。
だが、彼が怪我しているのを見た時――少しばかりいやがらせをしたくなったのだ。
彼がこの怪我を隠そうとするなら、暴いてやりたい。手当てなんてされたくないと嫌がるのなら、してあげたい。彼を困らせてみたかった。
(……私は何をしているのかしらね)
彼に気づかれないよう、ひっそりと自嘲する。自分の行動がわからなくなる。
この格好からして、彼は『夜梟』として仕事を終えたばかりなのだ。その標的がセラティスかもしれない。彼の外套についているのはセラティスの血かもしれない。
セラティスが殺されてしまえば、オルナは悲しむ。妹が泣き伏せる姿を想像するだけで胸の奥が苦しくなる。
この人が、この手が、セラティスを殺した。そう考えれば憎らしさはあるのだが、それよりも自身の力が及ばなかったことへの落胆が勝る。
だが、ミゼレーではなく自分が向かったとしても目立ちすぎてしまうだろう。馬車を拾ったとしても警戒されてしまう。これしか出来る手はなかったのだ。
(私は、間に合わなかった。だめだったのかもしれない。なのに、セラティスを殺したかもしれない人の手当てをしている。本当に、何をしているのかしら)
オルナとセラティス。二人を応援すると決めていたのに、何もできなかった。
不甲斐なさは心に積もり、ついに溢れていく。
(旦那様はどうして暗殺なんてするのかしら。こんなの誰も幸せにならないこと。怪我をしてまで人を殺めるなんて……本当にわからない)
目の奥が熱い。セラティスを守り切れなかった悔しさや彼に対する疑問で頭がいっぱいだ。
「……泣いている、のか?」
声がかかり、ヴィルエははっと我に返る。
巻いていた包帯を見やれば、ぽたぽたと沁みが出来ている。ヴィルエの後悔が涙となって彼の包帯に落ちていた。
それに気づいたヴィルエは手で涙を拭った。そして彼に微笑む。
「別に、何でもありませんわ。不審者さんには関係のないことです」
これ以上追及されないよう、ヴィルエは残っていた作業を速やかに進める。包帯の端を結び終えると急ぎ立ち上がった。
「これで終わりです。不審者さんの侵入はなかったことにしておきますから、玄関からお帰りください」
ヴィルエが言うと、夜梟は何も言わず立ち上がり、足早に去っていった。玄関の扉が閉まった後は、何も聞こえなくなる。アクシオはヴィルエが起きていると知ったので、時間をずらして帰ってくるだろう。
(……ミゼレーの報告を待たなければ)
『夜梟』が動いたことは事実。この夜に、誰かが殺されている。
ヴィルエは部屋に戻ったが、彼の腕に触れた時の冷たさはなかなか消えてはくれなかった。




