8.隠し事
デールに別れを告げた後、ヴィルエはすぐに会場を出た。
外に待機させていたミゼレーに事の次第を話し、デール周辺に探りを入れるよう命じる。レインブル家への連絡も急がなければならない。文でのやりとりは時間がかかると判断し、代理でミゼレーを送ることにした。
情報整理や指示。それらを終わらせると、時間はすっかり遅くなっていた。
手配してもらっていた馬車に乗り込むも、窓を見やれば霧がかった夜の景色である。たとえヴィルエといえ少々心細くなる。
そうしてニーベルジュの屋敷が見えたところだった。馬車から降りたヴィルエを待ち構えていたのは、玄関扉にもたれかかって険しい顔をしたアクシオである。
(しまった。旦那様より遅く戻ってきてしまったのね)
夜遅くまで出かけると聞いていたため油断していた。ミゼレーとの打ち合わせに時間をかけすぎてしまったのだろう。
内心で生じた焦りを隠し、ヴィルエは颯爽とアクシオのもとに行く。
「ずっと待っていらしたの?」
「自由に遊び回る蝶がいるようだからな」
アクシオは変わらず不機嫌な様子である。ヴィルエをじっと睨み付けている。
「夜も元気な蝶のおかげで、ニーベルジュは悪妻を迎えたと言われている」
「お気に召しませんでした? 『夜宴の黒花』との縁談を許した時から、そのような外聞は覚悟しているものと思っていたのですが」
「お前は若い子爵がお気に入りらしいな。密室にて親しげに話していたそうじゃないか」
彼が語っているのはデールのことだろう。だが、夜会にいなかったはずのアクシオがなぜ知っているのか。
(私を監視していたのかしらね)
自分が出かける間も、ヴィルエに監視をつけていたのだろう。それをこの場で告げてくるアクシオに苛立つ。
いや、この出来事だけではない。ここ最近のアクシオには腹が立っていた。いつもそばにいるものだから監視されているような心地で落ち着かない。屋敷に帰ってきてもすぐにこれだ。
「私と顔を合わす機会を増やすとは仰っていましたけれど、ここまで興味を持たれるなんて意外でしたわ」
この男は、本当に腹が立つ。
出会ったばかりでも干渉しないと突き放し、しかし重要な秘密を知られれば慌てて監視を付けてくる。
(『夜梟』であることを知られたくなかったのなら、私との縁談なんて引き受けなければよかったのに)
ヴィルエは彼から視線を逸らす。アクシオを無視して、歩き出した。
「たとえ旦那様であっても、しつこい男は嫌われましてよ」
そのまま屋敷の中に入る――つもりであったが、それは敵わなかった。
アクシオの前を通り過ぎようとした瞬間、ぐいと腕を引っ張られる。アクシオがヴィルエの腕を掴んだのだ。
「……良からぬことを企むなよ」
地を這うような声で囁く。きっと睨み付けるもアクシオは眉間に深い皺を寄せ、こちらを射貫かんばかりの眼光を向けている。
「俺に迷惑をかけることは許さないと言ったはずだ」
「……意味がわかりませんわ」
「あの男には近づくな」
アクシオの言葉は忠告だ。あの男とはデールのことであり、ヴィルエに余計なことをするなと釘をさしているのだろう。
(デールが進めている暗殺計画について、私に引っかき回されたくないのかしら)
ここでその忠告が出ると言うことは、やはりアクシオはデールの依頼を受けた暗殺者かもしれない。
「私に興味を持つことはないと宣言したのは旦那様でしょう。それが今になって、他の者に近づくななんてよく言えましたわね」
忠告されてその通りにできるわけがない。ヴィルエは『国王の耳』として動かなけれならないのだ。
そして何よりも、彼の高圧的な態度が鼻につく。興味はないと言った本人が行動を強制してくるなんて横暴だ。
「蝶が自由に飛び回るのは、蝶だけの責任ではありませんよ。籠がなければどこへでも飛べてしまうのです。旦那様が私を放っておくから、自由に飛び回っているのです」
アクシオの表情がさらに険しくなる。それでもヴィルエは言葉による攻撃の手を緩めない。
「そろそろ放してくださる? このような力強さでは、蝶の羽根も折れてしまいますわ」
ヴィルエは、アクシオは女性に不慣れだと考えている。だからか強く言えば手を放すだろうと考えていた。
(動揺して、ぱっと手を放す。その隙に逃げれば――)
昼間のように赤面するだろう。そう考えてからかうように告げたのだが、返ってきたのは予想に反するものだった。
「つまり、俺がお前を構わないから男遊びに励んでいると?」
意外にも、ヴィルエの腕を掴む彼の手に力がこもった。その力強さに後退りをするも、すぐさま距離を詰められる。気づけば、壁際まで追い込まれていた。
それでも足りないらしく、アクシオはヴィルエのそばに手をついて顔を近づける。
(え? う、嘘でしょう!? こんなことできる人だと思っていなかったのに)
アクシオが纏う香水の香りさえもわかるほど距離が近い。体格の良いアクシオが壁際に手をつけば、まるで囲いこまれているような閉塞感がある。見上げれば悔しいほど整った顔立ちがこちらに向いていた。
ヴィルエは内心で動じていた。アクシオは女性に不慣れだろうと考えていたのだ。こちらに触れることさえ出来ないのだと甘く見ていた。
それが、今は真剣な表情をしてこちらを見つめている。腕に込められた力は強く、振りほどこうとしても敵わないだろう。
(あの可愛い赤面はどこに消えたのよ! こんな反撃をするなんてずるいわ!)
吐息さえも重なるほどの近さで、彼に見下ろされている。狼狽えていたり、顔を赤らめたりする時とは違うその表情に、彼は男の人なのだと意識させられてしまう。
「ヴィルエ」
名を呼んだ後、彼の顔がゆっくりとこちらに迫ってくる。そして耳元でささやいた。
「俺がお前を妻として扱えばいいのか? わからせれば、満足するのか?」
甘く囁かれ、頬どころか耳まで熱くなりそうだ。アクシオに聞こえてしまうのではないかと不安になるほど心音が急いている。
(動揺を見せてはだめ! 落ち着くのよヴィルエ。相手は初心な反応をしていた旦那様なんだから! きっと今は暴走してるだけ!)
なにせ『夜宴の黒花』の異名を持っているのだ。そんなヴィルエが、壁とアクシオの間に挟まれて迫られているからといって動揺するわけにはいかない。男性経験がないことを相手に気づかれてしまう。
「わ、私は……」
アクシオに負けてはいけない。屈してはいけない。そう考えて反論しようとするも、普段のように鋭い言葉が浮かんでこない。彼の熱いまなざしが逃がしてくれないのだ。
体温が上昇していくのがわかる。今頃、真っ赤な顔をしているのではないか。
それを彼に見られるのが腹立たしく、ヴィルエはアクシオから顔を背けた。
「……放して」
ようやく紡げたのは精一杯の言葉だ。普段なら饒舌だというのに、今は戸惑い震えた声しかあげられない。
だが弱々しいその言葉はじゅうぶんアクシオに届いたらしい。彼の瞳が大きく揺らぎ、怒りや焦りが瞬時に消えていく。我に帰ったかのように、ぱっと手を放した。
「あ……わ、悪い。こんなつもりは――」
これほど近くに迫っているのだと、アクシオ自身も気づいていなかったのかもしれない。彼は手を放すだけでなく、飛び退くようにしてヴィルエから離れている。
(……あんな風に迫れるなんて、旦那様を甘く見ていたわ)
距離を取っても、まだ心音は急いている。彼の腕に閉じ込められた時、妙な気持ちに捕らわれてしまった。動けなくなって、彼の瞳だけを見つめていたくなるような衝動だ。だがそんなの、自分らしくはない。これをアクシオには知られたくなかった。振る舞いと異なり、男性に慣れていないという弱点を晒したくない。
ヴィルエは何も言わず、彼に背を向けた。
「待て! 話は終わってない」
後ろからアクシオの声が聞こえてきた。だが、ヴィルエは振り返らず足早に去って行く。幸いにもアクシオが追いかけてくる様子はなかった。
早く部屋に逃げ込みたい。目を瞑れば、間近まで迫ったアイスブルーの瞳が思い出される。
遊んでいる時間はないというのに、頬に生じた熱はまだ冷めてくれそうになかった。




