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静寂の向こう

掲載日:2025/09/02


田村が最後に本を読んだのは、いつだったろうか。


廃墟となった図書館の片隅で、彼は朽ちかけた文庫本を手に取った。表紙は色褪せ、ページは湿気で波打っている。それでも文字は読める。『こころ』と背表紙にある。夏目漱石の代表作だ。田村は三年前まで、この図書館で司書をしていた。毎日のように手にしていた本が、今では貴重な遺物のように思える。


外からは相変わらず、あの音が聞こえてくる。引きずるような足音。呻き声。時折響く何かが倒れる音。田村はもう慣れていた。三年前の夏の日、突然始まったあの騒動から、世界は変わってしまった。最初は海外のニュースだった。感染症の一種だと言われていた。だが、それは嘘だった。死者が蘇り、生者を襲う。そんな荒唐無稽な話が現実となった。


田村は本を膝の上に置き、窓の外を眺めた。かつて賑やかだった商店街は、今では草木に覆われている。アスファルトの隙間から逞しく芽吹いた雑草が、人間の営みを飲み込もうとしている。自然の復讐とでも言うべきか。いや、復讐ではない。自然は何も考えていない。ただ、空いた隙間を埋めているだけだ。


「おじさん」


声がした。田村は振り返る。図書館の入り口に、一人の少女が立っていた。年の頃は十歳ほどだろうか。汚れた白いワンピースを着て、裸足だった。だが、田村が最初に気づいたのは、少女の目だった。澄んでいる。この三年間で出会った「彼ら」とは明らかに違う目をしていた。


「君は…」


田村は立ち上がろうとして、躊躇した。少女の首筋に、小さな咬み傷があるのが見えたからだ。既に治りかけているが、その痕は間違いなく「彼ら」によるものだった。つまり、この少女は感染者のはずなのだ。


「怖くないよ」少女は微笑んだ。「私、まだ私だから」


田村は息を呑んだ。感染者が言葉を話すことはない。彼らは本能のままに行動し、生者を求めて彷徨うだけの存在だった。だが、この少女は違う。確かに人間の意識を保っている。


「君の名前は?」田村は慎重に尋ねた。


「えみ。漢字は、笑顔の笑に、未来の未」


田村は『こころ』を書架に戻し、ゆっくりと少女に近づいた。えみは動かない。ただじっと田村を見つめている。


「どうして…君は」


「わからない」えみは首を振った。「でも、おじさんみたいに考えることができる。本を読むことも、お腹がすくことも。ただ…」


えみは自分の手を見つめた。指先が少し青白く変色している。


「時々、違う匂いがわかる。生きてる人の匂い。それがとても…美味しそうに感じる」


田村の背筋に寒気が走った。だが、同時に不思議な感動も覚えた。この少女は、生と死の境界に立っている。人間でありながら人間でない存在。そんな彼女が、自分の状況を客観視できているのだ。


「でも、食べたくない」えみは続けた。「おじさんを見ても、そう思わない。不思議」


田村は膝を曲げ、えみと同じ目線になった。


「怖くないのかい?自分のことが」


「うん、怖い」えみは素直に答えた。「でも、一人でいるのはもっと怖かった。おじさんがいてくれて、嬉しい」


その夜、田村はえみと図書館で過ごした。えみは本を読むのが好きだった。特に絵本を好み、声に出して読んだ。その声は普通の少女と何ら変わらなかった。ただ、体温が少し低く、脈拍もゆっくりだった。


「おじさんは、前はここで働いてたの?」えみは『はらぺこくまさん』のページをめくりながら尋ねた。


「そうだよ。毎日、たくさんの人が本を借りに来た」田村は懐かしそうに言った。「子どもたちも来てくれてね。君くらいの子もいたよ」


「その子たちは、今どこにいるの?」


田村は答えられなかった。きっと、もうこの世界にはいない。生きていたとしても、どこか遠くに避難しているだろう。


翌朝、田村は奇妙な夢から目覚めた。妻と娘と一緒に海辺を歩く夢だった。妻は五年前に病気で亡くなり、娘は結婚して遠くに住んでいる。連絡も取れなくなって久しい。きっと生きているだろうと信じているが、確信はない。


えみは田村の隣で丸くなって眠っていた。寝息は聞こえない。胸の上下もほとんどわからない。それでも、確かに眠っている。夢を見るのだろうか。感染者にも夢はあるのだろうか。


日が昇ると、えみは目を覚ました。


「おはよう、おじさん」


「おはよう、えみちゃん」


田村は缶詰を開けて、えみに差し出した。えみは首を振る。


「私、もうあまり食べなくても大丈夫」


「でも…」


「ちょっとだけなら」


えみは缶詰から桃を一切れ取り、ゆっくりと口に運んだ。味覚はあるようだった。表情が少し和らいだ。


その日から、二人の奇妙な共同生活が始まった。田村は食料を探しに出かけ、えみは図書館で本を読んで待った。えみは外に出ることを嫌がった。他の感染者たちに出会うのが怖いのだと言った。


「彼らを見ると、自分もああなってしまうような気がする」えみは本を抱きしめながら言った。「でも、時々、彼らの気持ちがわかるような気もする。何かを求めて歩いている。でも、何を求めているのかわからない」


田村は毎日、えみに本を読んで聞かせた。えみの好みは幅広く、絵本から小説まで何でも聞いた。特に人の心を描いた作品を好んだ。夏目漱石、森鷗外、太宰治、芥川龍之介。えみは登場人物の心情を驚くほど理解していた。


「先生は、なぜKを裏切ったのかな」えみは『こころ』の感想を話した。「嫌いだったから?それとも、怖かったから?」


「どうだろうね」田村は答えた。「人の心は複雑だから、感想は人それぞれだよ。」


「私も複雑なのかな」えみは自分の手を見つめた。

「生きてるのか死んでるのかわからない。でも、おじさんといると、生きてるような気がする。」


季節は秋から冬へと移ろった。図書館は寒かったが、二人は寄り添って暖を取った。えみの体は冷たかったが、田村にはそれが慰めになった。孤独から救われた安らぎがあった。


ある雪の日、えみの様子がおかしくなった。本を読んでいる最中に、突然立ち上がって窓の方を見つめた。その目は、田村が初めて見る表情だった。何かに惹かれるような、渇望するような目だった。


「えみちゃん?」


えみは振り返った。その瞬間、田村は恐怖を感じた。えみの目が、一瞬だけ「彼ら」と同じになったのだ。だが、すぐに元に戻った。


「ごめんなさい」えみは涙を流した。「変な感じがした。誰か…生きてる人が近くを通ったみたい」


田村は窓の外を見たが、何も見えなかった。だが、確かに足音が遠ざかっていく。生存者がいるのだ。


「大丈夫だよ」田村はえみを抱きしめた。「君は君だ。それは変わらない」


だが、その日を境に、えみの中で何かが変化し始めた。本を読んでいても、時々ぼんやりとしてしまう。食べ物を全く受け付けなくなった。そして、時折、田村を見る目が変わった。


「おじさん」ある日、えみは言った。「私、だんだんわからなくなってきた。本の内容が頭に入らない。でも、別のことばかり考えてしまう」


「どんなこと?」


「匂い。音。心臓の音」えみは田村の胸に耳を当てた。「とても…きれいな音」


田村は背筋が凍った。だが、えみを突き放すことはできなかった。この少女は、まだ人間の部分を保っている。その部分に語りかけ続けるしかない。


「本を読もう」田村は言った。「いつものように」


えみは頷いた。だが、その日読んだのは『銀河鉄道の夜』だった。ジョバンニとカムパネルラの友情の物語。二人の少年が銀河を旅する幻想的な物語。


「カムパネルラは、なぜジョバンニを置いて行ってしまったの?」えみは尋ねた。


「彼は…もう違う世界にいたからだよ」田村は答えた。「でも、友達でいることはできる。離れていてもね。」


えみは頷いた。その目には、以前の輝きが戻っていた。


春が来た。図書館の周りに花が咲いた。えみは窓辺で花を眺めるのが好きになった。だが、田村には気づいていた。えみの変化が少しずつ進んでいることを。会話は続いているが、反応が鈍くなった。本への集中力も落ちている。


「おじさん」ある朝、えみは言った。「私、もうすぐいなくなっちゃうかもしれない」


「そんなことない」田村は言った。だが、声は震えていた。


「でも、大丈夫」えみは微笑んだ。「おじさんと過ごした時間は忘れない。たとえ、忘れてしまったとしても、きっと心のどこかに残ってる」


その夜、えみは田村に最後の質問をした。


「おじさん、人は死んだらどこに行くの?」


「わからない」田村は正直に答えた。「でも、心に残った人は、きっとどこかで生き続けているよ」


翌朝、えみは起きなかった。いや、起きることはできたが、もう田村を認識しなかった。彼女の目は空虚になり、ただ本能のままに動くようになっていた。それでも、田村の前では攻撃的になることはなかった。まるで、どこか深いところで田村を覚えているかのように。


田村はえみを図書館から送り出した。他の感染者たちと同じように、街を彷徨うえみを見送った。だが、心の中で彼女はまだ生きていた。あの数ヶ月間の記憶とともに。


一人になった図書館で、田村は再び本を手に取った。『銀河鉄道の夜』。ページをめくりながら、彼は思った。死んだ世界でも、物語は生き続ける。記憶も、愛情も、すべて物語の一部となって永遠に続いていく。


窓の外では、新しい季節が始まろうとしていた。草木は青々と茂り、鳥たちが歌っている。世界は終わったが、同時に続いてもいる。田村は本を読み続けた。えみのために。失われたすべてのために。そして、まだ見ぬ明日のために。


静寂の中で、物語だけが永遠に響いている。

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