いい加減、わかれよ
どんなに憂鬱でしんどくても、朝はやってくるらしい。
俺はベッドからなんとか身体を起こした。
鏡の中の自分は、自分でも驚くほど無表情だった。
実況動画を撮ろうとコントローラーを手に取った瞬間、ガリッという嫌な音がした。
スティックが、欠けていた。劣化していたのだろう。全ての物事が負のスパイラルに陥っている気がする。
(よりによって今、かよ……)
ため息をつき、重い身体を引きずるようにして、電器屋に向かった。目的はただ一つ、新しいコントローラーを買うため。実況配信者としての毎日を守るため。それ以外、今の自分を突き動かす理由は何もなかった。
電器屋を出た帰り道は少しだけ気分が晴れていた。
新しいコントローラーの握り心地も悪くないし、欲しかったゲーミングイヤホンもセールで手に入った。小さな満足感が胸をくすぐる。
(まぁ、こんな日も悪くない、か)
そう思っていた。あの瞬間までは。
駅で2人の姿を見つけてしまった。
月平さん、と齊藤さん。
自然体なのに、どこか完成された空気を纏った2人。並んで歩くその姿は、誰が見てもお似合いだった。
「えっ、美男美女じゃない?」
道行く誰かのそんな声まで聞こえてしまった。
胸の奥が、ぎゅっと縮まった。
まるで、息をするのを忘れていたみたいだった。
それ以上、2人の姿を見ていられず、俺は足早にその場を離れた。
***
数日後。
俺たちはスポンサー主催のゲームイベントにGG4として出演していた。
いつものように実況者“羊”として振る舞うべき日だったが、頭の中はぼんやりと霞がかっていた。
もし、齊藤さんから「月平さんと付き合うことになった」と言われたら。
自分は笑って祝福できるのか——
俺は頭を振り、目を閉じて深呼吸した。
大丈夫だ。今はイベントに集中する。それが自分のやるべきことだ。
そう何度も言い聞かせ、ステージに上がった。
いつものように皆の空気感を読んで、ツッコミして。笑いも盛り上がりもあり、GG4としての強みを、きちんと見せることができたと思う。観客の反応もよかったように感じた。
だが、ステージを降りた瞬間に、再び現実が襲いかかってきた。疲労からなのか、喪失感からなのかわからない、大きなため息がでた。
イベント後、皆で控え室で昼食を取っていた。
皆、リラックスした表情で雑談混じりの談笑が続いていた。そのとき、不意に名を呼ばれた。
「羊くん」
——来た、と思った。
振り向くと、齊藤さんがいつもの穏やかな笑みで立っていた。
「俺、月平さんに告白したよ」
その一言に息が詰まった。横にいた井口さんと四宮が、同時に目を見開いて固まっているのがわかる。
何気ない調子だったが、その言葉の破壊力は十分すぎて。箸を持つ手が微かに震える。
「……ふられちゃったよ」
齊藤さんはあっけらかんと言った。まるで天気の話でもするような声に、俺は反射的に目を見張った。驚きと、安堵が、胸の中で渦を巻く。
「彼女に、『俺が告白したとき、誰のこと考えてた?』って聞いたらさ……しばらくして真っ赤な顔して、目、見開いてた」
齊藤さんは、ふっと笑う。その顔はいつも通り、ズルいくらい整っていて、けれどどこか、優しさが滲んだ笑いだった。
「小さなペンギンのキーホルダー、ずっと握ってたよ。羊くんなら、意味、わかるだろ。……ってか、いい加減、わかれよ」
——ペンギンのキーホルダー。
あの日、水族館で、初めて彼女とちゃんと向き合って話したあの時。
俺たちが出会って、会話のきっかけをくれた、あのキーホルダー。
彼女が好きだと言っていた、ペンギンの。
張り詰めていた心の糸が、静かに震えた。
視界の奥がにじんで、胸が詰まる。
(会いたい)
その衝動が、心の中にじわりと広がった。
今すぐにでも、彼女に会いたかった。
俺が黙ったまま、箸を置いたのを見て、井口さんがぽんと肩を叩く。
「羊くん、もうご飯終わった? 俺、今日車で来てるから。家まで送るよ。電車待つより、早いでしょ?」
「……ありがとう、ぐっちさん」
俺は小さく礼を言い、荷物を手に立ち上がる。
「……悪い。俺、今日ここで上がるわ」
そう言い残し、控え室を出た。
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