自分の気持ちを知った夜(Side;菜緒)
ぼんやりと、自分の靴音だけが耳に響く。
いつのまにか駅からの道を歩ききって、自宅のマンションの前まで帰ってきていたらしい。どうやって帰ってきたのか、覚えていない。
「誰が君の心にいた?」
齊藤さんの、あの穏やかな声が、まるで何度もリフレインするかのように頭の中で繰り返されていた。
(誰が、って……)
思い浮かぶのはたった1人。
黒髪で、黒縁眼鏡。少し無愛想だけど、動物の話になるとふわっと表情が柔らかくなる人。落ち着いた低めの声で、感情の波を見せないようでいて、ふとした瞬間に人の何倍も優しい目をする人。
……そんなの、答えは決まってる。
でも、自分の中でそれを言葉にしてしまったら、もう後戻りできない気がした。胸の奥がじんと苦しくなる。
(私、いつの間にこんなに彼のこと……)
そんなことを考えながら、マンションに一歩足を踏み入れたときだった。
「えっ……?」
マンションのエントランスに人だかりができていた。何事かと近づくと、掲示板に貼り紙があった。
『〇〇号室 漏水のため、緊急工事を行います。本日より最長一週間、上下階の一部住戸に立ち入り・断水の可能性があります』
(うそ……。うちの上の階で漏水!?)
慌てて管理人に確認するも
「申し訳ないねぇ……。安全のため、今夜から入れないことになっちゃって」
と申し訳なさそうに頭を下げられた。
(もう、なんなのよ今日……)
急なことに気落ちしながらも、最低限の着替えと必要な道具だけをまとめて職場に向かった。もしかしたら、一時的にでも仮眠室に寝泊まりできるかもしれない。仕事もあるし、急に実家にも帰れない。まさか自分の家に戻れなくなるとは思わなかった。
看護師長に事情を話すと「大変だったわねぇ」と同情され、あっさりと「いいわよ。当直用の仮眠室、一週間くらいなら一部屋使っても」と言ってもらえた。鍵を受け取り、ひとまず落ち着けるところができてホッとする。
「家にいてもモヤモヤするだけだし、働こう! 働いていれば、考えなくて済むもんね……」
自分にそう言い聞かせるように呟いて、泊まる仮眠室に向かった。
***
ベッドがあるだけの小さな部屋。スマホを取り出して、ふと、羊さんの配信チャンネルを開いた。
彼の落ち着いた語り口が、今の自分には、少しだけ薬になる気がした。
『いやいや、この敵の演出、無駄に長いでしょ。ド派手にしたい気持ちはわかるけど、ここで求められてるの、エンタメじゃなくて“短さ”なんすよ……』
羊さんの優しい声、ちょっと毒を含んだ様な言い回し。それらが静かな仮眠室に響く。何となく、画面の向こうの彼が思い浮かんで、会いたくなってしまった。
でも会ってどうするの? ステージの上の彼と、下の自分。その距離感に怯えて、この前の打ち上げだって彼を前にしたとき、何も言えなかったじゃない。今もメッセージ一つ、送れない。そんな自分が情けない。
「ほんと、バカみたい……」
つぶやいた声が、誰に聞かれるわけでもなく吸い込まれていく。
日辻さんに、会いたかった。彼と何気ない話をして、笑い合いたかった。名前を、呼んでほしかった。
(でも、それを望んでいい場所に、私は立っていない)
そう自覚した瞬間、胸がきゅうっと締めつけられて、涙がこぼれた。
胸が、痛くて苦しい。
明日はきっと忙しい。朝から手術の準備をしなきゃならないし、病棟ミーティングもある。新人のサポートにも入る予定だ。
泣いてる暇なんか、ない。考えている余裕なんて、ない。
そうして、きつく目を閉じた。
でも、どんなに目を閉じても、彼の顔が浮かんでしまう。
あの公開実況の日に。優しい声で「月平さん」って私を呼んでくれた、彼のことばかり。
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