出会いは電車の中で(1)
朝の満員電車。
人間という生き物は、なぜこうも規則正しく混雑するのか。
他の路線が止まった影響だとかで、車内は押し合いへし合い。そこに乗り込んだ日辻智士はイヤホンを耳に押し込み、少しでもこの息苦しさから逃れようとした。
(駅までの辛抱だ……)
一つ、息を吐いた。そんなときだった。
ふとした視線の先、一人の女性が、身体をこわばらせていた。
肩が微かに震えている。俯いていて表情は見えない。しかしその身体の硬直ぶりで異変に気づく。
その横に立っているスーツ姿の中年男。微妙に、しかし確実に、腕の動きがおかしい。
——痴漢、か。
胸の奥にかすかな苛立ちが灯る。
「やめろ」と声を上げればいい。
だがこの密集地帯で騒げば、彼女はもっと注目を浴びる。二次被害を与えることにもなりかねない。
だから、智士は何も言わず、電車の揺れを利用して、さりげなく体を滑り込ませた。
彼女と中年男の間に、自分の背を割り込ませるように。
背中越しに、男がわずかに息をのむ気配が伝わってきた。
やがて、自身に降りかかる執着が消えたことに気付いたのだろう。不思議そうに彼女が見上げてきた。
目が合った。
優し気な目元にうっすら涙が滲んでいた。
どこか儚げなのに、芯のあるまなざしが印象的だった。
大きすぎず、しかしはっきりとした瞳と結ばれた口元は不安気に揺れていた。
なぜか、目が、離せなかった。
彼女は驚いたように目を見開き、そして理解した。
助けられたことに。守られていることに。
次の瞬間、彼女はふわっと微笑んで口を動かした。
「ありがとう」
そのたった一言を、口パクで。
(……え………?)
その瞬間。
心臓が一拍、跳ねた。
(……なに今の)
息が詰まった。なんでかはわからない。
けれど、確かに胸の奥で何かが始まった。
イヤホンから流れる音も全く耳に残らない。自分の心臓の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。
時間にして5分程度の出逢い。気がついたら電車は駅に到着していた。
ドアが開く。彼女の姿は降りる人波に紛れてあっという間に見えなくなった。
名前も、どこに住んでいるのかも、何も知らない。
ただ、あの「ありがとう」と彼女の微笑みだけが、妙に鮮明に残った。
***
智士は“羊”という名でゲーム実況配信者をしている。
語彙の豊富さと抜群のトーク力にキレのあるツッコミ。そしてファンからは「羊ボイス」と呼ばれる低音の癒し声。これらを武器に人気実況配信者の一人となっていた。
更に、自身の配信以外にも、他の三人の実況者とチームを組んで活動していた。
一人は齊藤蓮、実況者名は“Ren”。冷静で理知的。分析系のゲームプレイを得意とする正統派イケメン。チームの配信では司会進行を行うことも多いリーダー的存在だ。
そして井口大樹、実況者名は“ぐっち”。奥さんと娘がおり、穏やかで親しみやすい性格だが、一方でゲーム内では鬼畜プレイも多い。そのギャップにハマるファンが続出している。
最後に四宮清史朗、実況者名は“セイ”。ジャニーズ系の可愛らしい顔立ちでボケと叫びを振り撒く、常にハイテンションな男。高いセンスと鋭い直感力を持つ、天才肌。
この4人で“Game Geek 4”、略して“GG4”と銘打って、日々配信を行っている。ファンも多く、チャンネル登録者数は先日200万人を突破した。
その日、GG4での収録を終えた直後、智士は、やけに三人の視線を感じていた。
齊藤がちょっと笑いながら探るように言う。
「羊くん、なんかあったでしょ。今日、途中から変な間あったよ」
「実況の途中で、動物の話してたのに反応薄いの、らしくないと思った。動物好きの羊くんともあろう者が」
スナック菓子に手を伸ばしながらニヤついているのは四宮。
「確かに。うちの娘でも気づくレベルだよ、あれ」
井口はペットボトルのお茶を手に、今にも笑い出しそうな顔をしている。
「……あー……まぁ……ちょっとな」
こいつらとの付き合いも長い。今朝の出来事を白状すると、三人の反応は予想通りだった。
「えっ!? マジで!? 羊くんが!? 一目惚れ!?」
「でも、どこの誰かもわかんないんでしょ?」
「それは……乙女ゲーか?」
からかわれてることくらい、わかってる。正直、否定はできなかった。
名前も知らない。また会える保証もない。だから、諦めるしかない——そう、思っていた。
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