黒猫のアリア
「にゃ、にゃー」
なんて、もうルゼリアの従者がそこまで迫っていると言うのに、猫の鳴きまねなんで粗末なもので誤魔化せるわけがない。
……はずなのに。
「猫でしたか」
柵を軽々と越えて来た従者はアリアを見下ろし、一言そう言った。
(ど、どういうこと?)
アリアはやけに大きく見える従者から距離をとる為、思わず一歩後ろにさがった。
動かした足の裏に、やけに土の感触がする。
しかも、目の前の従者の肌のきめの細かさや衣装の細かい皴まで、やけによく見える。
「こちらにおいで」
従者が目の前で屈んだので、アリアは思わず毛を逆立てて威嚇していた。
しかし、従者は素早くアリアの首根っこを掴むと、ひょいとその腕の中に固定した。しかしアリアの体は驚くほど軽く、抵抗しようにも小さな足ではバタつく程度しかできない。
従者は、アリアの抵抗など意に介せず、そのまま柵を簡単に飛び越えて中庭に戻った。
「にゃー……」
アリアは従者の腕の中で自らの腕を見て、小さく鳴いた。
毛皮の肌触り、柔らかいしっぽ、耳の感覚が妙に鋭敏で、嗅覚がやたらと鋭い。
(なるほど、そういうことね……)
冷静になったアリアは、やっぱり黒猫の姿になっていた。
こうして納得したアリアが思い出したのが、死に戻る前に使った、闇魔法のことだった。
あの、禁書庫から持ち出した闇魔法の本には、黒猫になる魔法も載っていた。
その時のアリアは死に戻りの魔法と共に、その魔法も施していた。
死に戻りの魔法がすでに発動しているのだから、黒猫になる魔法だって本物の可能性が高い。ただ、それを咄嗟に判断して賭けに出たという訳ではなくて、窮地に陥って咄嗟に行った馬鹿な行動がたまたま功を奏したというだけの話だった。
(黒猫になる闇魔法の存在なんて、正直言うとすっかり忘れていたわよ……)
正直言うと、出来心で暇つぶしにやってみたこの魔法は、発動方法さえもあまり覚えていない。
猫の鳴きまねが関わっていたような気もするが、詳細は不明だ。それに、あの時禁書庫から持ち出した闇魔法の本は、死に戻ってから探しに行ったのだが、何故か見つからなかった。
禁書庫にその本の形跡は跡形もなく、何度忍び込んでももう一度見ることはできなかったのだ。
「殿下、気配の正体は猫でした。ご安心を」
「そう、猫だったのね。黒猫なんて珍しいわね」
従者はルゼリアに黒猫姿のアリアを差しだして見せた。
汚いから逃がして来てと言われるかもと期待したが、ルゼリアは従者からひょいとアリアを受け取った。
(だ、大丈夫かしら……)
アリアはルゼリアの腕の中でブルっと震えたが、ルゼリアは思いのほか優しい手つきでアリアを撫でた。
「金の目の猫は好きよ。お金の遣いだもの」
ルゼリアはしばらく中庭の風を楽しむように目を細めていた。
しかし「そろそろ行くわね」と言って立ち上がり、アリアを従者に手渡した。
「では伯爵、貴方の商品も意向もはっきりとわかって、今日はとても充実していたわ」
「は、はい。それはなによりですな」
「伯爵はまだ数日この砦に滞在するでしょう?私の従者を一人残しておくから、楽しんでね」
ルゼリアは伯爵に向けて微笑んで、アリアを腕に抱いている従者に伯爵の傍に残るように指示を出した。
「では、伯爵をよろしくね」
「かしこまりました」
従者はお辞儀をし、去っていくルゼリアを見送った。
伯爵はホッとした顔をして、従者は真面目な顔でルゼリアの後ろ姿が見えなくなるまでそこに立っていた。
しかし、従者の腕の中にいたアリアだけは震えるように眉間にしわを寄せていた。
「よろしくね」と言ったルゼリアが従者に顔を寄せた時、小さな囁きだったがルゼリアは確かに言った。
「用済みよ」と。
(こうしてこの従者が、伯爵を始末するのね)
アリアはその耳で聞いたルゼリアの声で、確信を持った。
しかしここまで、アリアは何の運命も変えられていない。
この隠密所属のルゼリアの従者が残ったことで、伯爵は着々と死ぬ運命をたどっている。そしてヴァルドもそのまま捕らえられ、結局カイゼルも処刑されることになる。
(でも伯爵はまだ死んでいない。伯爵の死を、何としてでも阻止しなくてはいけないわ)
アリアは自分の身体を抱きかかえているルゼリアの従者にガリっと爪を立てた。
取り敢えず、さっさと逃げて人間の姿に戻って伯爵を監禁するなりなんなりして、従者と引き離さねばと思ったのだ。
しかし従者は無表情のまま、アリアを離すことは無かった。
「……」
痛いの一言くらいはあるかと思ったが、従者は顔色一つ変えず手の甲から流れた血を見つめただけだった。
「にゃー」
「おなかがすいているのかしら」
従者はアリアを抱え直し、伯爵に向き直った。
「私はこの猫を騎士団に預けてきます。伯爵は部屋にお戻りください」
「分かった。そうさせてもらうよ」
アリアを抱いた従者は一直線に城の執務室へ向かい、コンコンと扉を叩いた。
そして出てきた人間に、黒猫姿のアリアを押し付けた。
「砦内で猫を保護しました。おなかをすかせているようですので何か餌を」
従者はそれだけ言い残すと、さっと踵を返して去って行った。
そして部屋から出てきた人間の腕の中に納まることになってしまったアリアは、半分パニックになっていた。
従者が猫を預けたのは執務室で仕事をしていたカイゼルで、全く予想外だった。
(餌をあげたいと言うなら、食堂へ連れていくなり厩舎へ連れていくなりすればいいじゃない!それを、何故この男の所に連れてくるのよ!責任者だからってこと?!)
アリアはカイゼルの手の中にすっぽり埋まっていたが、毛を垂直に逆立てて「シャー」と鳴いた。
「腹を空かせて苛々しているのか」
「シャー!」
「大丈夫だ、すぐミルクでも持ってくる」
「シャー!!」
(しかもこの男はこの男でトンチンカンなことを!)
カイゼルは、どうにか逃げようと身を縮めたり伸ばしたりしていたアリアをソファに乗せて、ミルクをとりに部屋の外に出ていった。
アリアはいまだとばかりに閉まった扉に突進して、取っ手に飛びついて扉を開けようとした。
しかし、小さな猫の姿のアリアでは取っ手に手が届かない。
(いきなり人間の姿に戻ったりなんてしたら……)
なんて思うと気が気ではない。
扉の取っ手に届くように椅子を動かすのも重くて難しそうだし、窓は開いていないし、鍵を開けようとしても足場がない。
どうしようと思っているうちに、廊下から足音が聞こえて来た。
カイゼルのもののようだ。
あの男のことだから、どうせ絶対に動物には優しいし、この猫の姿のままあの男に餌を食べさせられるなんて絶対に嫌だ。なんとか、どうにかしないと。
アリアはあたりを見回し、パッと目についたものに向けて走り出した。




