アリアが砦に来た理由
入浴を終えてすっきりとしたアリアは、女騎士から貸してもらった騎士用の内勤着を着て、カイゼルの執務室にいた。
執務室にはよく手入れされたソファとテーブルがあり、質素な調度品と、歴代の指揮官が所有していたであろう盾と、大陸地図が飾られていた。
カイゼルは器用な手つきでお茶を淹れ、アリアの目の前に置いた。
ふわっと立ち昇った湯気からは、のんびりとした田舎のお茶の匂いがした。
「よろしければ、どうぞ」
「自白剤でも入っているのかしら」
「まさか、そんなことはしません」
少しむっとした様子のカイゼルを見ながら、アリアはお茶に口を付けた。
悪態をついてはみたものの、カイゼルが飲み物に薬をポンポン入れるような、アリアのような邪道な人間でないことは分かっているので、何も気にせずごくごくと飲んだ。
アリアが一息ついたところで、アリアの対面に座ったカイゼルが切り出した。
「早速本題に入ります。貴女が共も付けず事前の連絡もなく、突然にこの危険な砦にいらっしゃった理由をお聞かせください」
カイゼルは、しっかりとアリアの瞳を捕らえていた。納得のいく答えを聞くまでアリアを返さないと考えていることがありありと伝わってくる。
アリアは内心ではカイゼルの真っすぐな瞳に感心しつつも、面倒くさそうな顔をして足を組み直した。
「理由ね。いいわ、教えてあげる」
そう言ってアリアは微笑んだが、本当のことを教える気はさらさらなかった。
死に戻りをしてヴァルドが死ぬことを知っているのでそれを阻止しに来たなんて、誰にも言う必要はない。
そもそも信じてもらえないだろうし、そもそも、これからさらに深く邪の道を進んでいくのだからアリアに理解者は必要ない。
「理由は大した話じゃないわ。暇だったから遠出がしたかったの。ずっと引き籠りの王女をやっていたけど、それにも飽きたのよ」
「理由になっていません。遠出がしたくて、なぜこんな危険な砦を選んだのですか」
「少し危険なところに行ってみたくなる時期は誰にでもあるわ」
「納得できません」
「貴方に納得してもらおうと思っている訳ではないわ。私の考えは私だけのものでしょう」
カイゼルはアリアの答えを聞いて、小さく眉根にしわを寄せた。
そのまましばらく黙っていたが、カイゼルはまた口を開いた。
「ヴァルドに、砦へ連れていけと言ったそうですね」
「ええ、言ったわ」
「貴女は、私たちがこの砦へ遠征することを知っていた」
「そうね」
「貴女がここに来たことは、ヴァルドと何か関係があるのですか?」
「ないわ。いい加減しつこいわね」
アリアはカイゼルを冷たく睨みつけると、持っていたティーカップをソーサーに乱暴に戻した。
カイゼルは流石にこれ以上追及しても何も出て来ないと思ったのか、もう質問はしてこなかった。しかし代わりに、砦の外には絶対に出るなと約束させられた。
「人狼族の雌が発情期を迎え始めています。獲物を求めてかなり活発に動いていてかなり危険ですので、絶対に砦から外へは出ないでください」
「善処するわ」
「善処ではなく、約束してください」
「……」
「約束してください」
「分かったわよ」
「ありがとうございます。あと、殿下のことはすぐに王都へお送りしようと思っていたのですが、現在人員の確保が難しい状況です。部隊が王都へ帰る時にお送りすることになるかもしれません」
「ここに長くいられる分には構わないわ。無理やり送り返されることになったら、全力で泣き喚いてやろうと思っていたところだったから」
「……」
「何よその顔は」
「いえ」
カイゼルが、珍妙な生物に出くわしたような何とも言えない表情になったので、アリアはキッと睨んでやった。
睨まれて、自分が失礼なことをしたと思ったのか、カイゼルは誤魔化すようにティーカップを手に取った。
つくづく真面目な騎士である。
「それに正直に言うと、砦に長く留まれるだけじゃなくて、騎士団が送ってくれるなら有難いわ。帰りも採掘車は流石にもう嫌だと思っていたところだったもの」
カイゼルはお茶に口を付けようとしていたところだったが、今度はアリアの何気ない発言でゴホゴホと小さく咽た。
「何咽ているのよ」
「いえ……ごほ、殿下、採掘車でここまで来たんですか?」
「そうよ。行きずりの採掘者に頼んで乗せてもらったの」
「行きずり?!なんでそんなことまでしてここに」
「だから、そういう気分だったのよ」
「気分って……それより、大丈夫でしたか?乗り心地も良くないでしょうし、乱暴な事をされたりは……」
「大丈夫よ。臭かったけど気絶するほどではなかったし、採掘者は文字通り馬車馬のようにこき使ってやったわ」
「そうですか……。あれ、ということはもしかして殿下、許可証もお持ちでない?」
「そうね」
「許可証無しで砦に入るなんて、不法侵入ですよ」
「知ってるわ」
「……。国防の要所である砦への不法侵入は重罪です」
「それも知ってるわ」
「…………。殿下の許可証は、私がなんとか発行しておきます……」
「別に今更要らないわよ」
カイゼルは表情が豊かではないながらも、流石に呆れた顔をしているようだった。
アリアはこれからもどんどん法を無視していく予定だから、こんな些細な事をそう気にすることは無いのにと思いながら、肘掛に肘を載せて頬杖をついた。
「もう行っていいかしら」
「ああ、すみません。最後にもう一つあります。部屋の件をお話しなければ」
言われて気が付いたが、そう言えばアリアの部屋がどこにあるのか聞いていなかった。
「そうだったわね」とアリアがカイゼルに向き直ると、カイゼルは階数と部屋の番号を口にした。
「実は、この部屋は騎士寮の一室となります」
「寮?分かったわ」
「……このようなことを聞くのも失礼かもしれませんが、客室では無いのですが、問題ないのですか?」
「別にないわ。屋根があればどこでもいいもの。でも、私が客室に案内されないのに理由があるなら聞きたいわね」
「はい。明日の来客で客室がすべて埋まってしまうので、殿下をご案内できるところがないのです」
申し訳なさそうなカイゼルの説明を聞いて、アリアはハタと動きを止めた。
「もしかして明日の来客は、リーリッシュ王国からの使節かしら」
「どうしてそれを」
カイゼルの疑問を無視して、アリアは立ち上がった。
本当は使節が到着する前に色々と調査をしておきたかったのに、使節の来訪が明日とは、益々時間がないではないか。
「ある時間で、やれることをやるしかないわね」
アリアは呟き、怪訝な顔をしているカイゼルを残して、さっさと部屋を出た。
カイゼルと悠長に話している時間はない。
アリアがこの砦に押しかけて来た目的は、この使節の男の死亡を阻止すること。そして、ヴァルドを救う事。
飲めない酒を飲んで、臭い採掘車も我慢してここまでやってきたのだ。その使節の男がどんな厄介な男でも、バックに第一王女がいたとしても、アリアはここで何としてでも運命を変えなくてはいけないのだ。
そうでなければ、またカイゼルが死ぬ。