処刑の日
(馬鹿ね)
真っ赤に染まった処刑台を見ながら、アリアは心の底からそう思った。
まだ乾ききらない血がぽたりぽたりと台を伝って落ちている。
王都の中央にある神殿の鐘が鳴り、晴れ渡る青空に響く。
正義は執行された、悪は成敗されたと言わんばかりだ。
男が処刑されたことに対して民衆が歓声を上げているのが、遠く遠くに聞こえた。
先ほどまで罵詈雑言だけでなく石なんかを投げて男を罵っていた人々は、悪しき男が死んだので清々しい顔をして、尊敬のまなざしを王子たちに向けていた。
男の処刑を成功させた清く正しい王子たちは、青空の下で民衆の期待に応えるようにゆっくり微笑んだ。
人々はその頼もしさに一層歓喜したが、アリアの目にはただただ滑稽に映った。
(馬鹿ね。本当に……)
アリアは痛む足を引き摺って、もう誰も見ていない処刑台に静かに登った。
真っ赤な血だまりの姿になってしまった男の姿を、何も言わずに見下ろした。
処刑されたこの男は折角逃走していたのに、先ほどボロボロの姿で王都の広場に現れた。
「もう止めろ。私はここだ」
男がそう言って姿を現したのは、昔男の邸宅で働いていたことがあるという御者が見せしめに胸を貫かれた後だった。
そして、最後に捕らえられていたアリアの胸が貫かれるその時だった。
なかなか捕まらない男をおびき出すため、男の関係者が捕らえられて、見せしめに一刻ごとに殺されていたのだ。
アリアは別に、誰も心配してくれる人のいない自分が殺されるのは構わなかった。
というか、書面だけの婚約者であるアリアを殺すと脅したところで男が出て来るとも思えなかったので、完全なる無駄死にを覚悟したが、それも実はどうでもよかった。
もっと言うのなら、血の繋がりは薄くとも兄である王子に成り行きで殺されるのも、地位は低くとも一応王女なのに誰も守ってくれないことも、最早何とも思わなかった。
辛くも悲しくもなかった。
自分は人から好かれてはいないし、自分も誰も好きではない。
誰かに優しくしたいとも、誰かを助けたいとも思ってこなかった自分が誰かに助けてもらえるなど思ってはいない。
人を遠ざけ、冷酷な態度を貫いたアリアのような悪女は、適当に断罪されるべきだ。
そう思っていたのに、男は現れた。
過酷な逃走だったのか、薄汚れて今にも倒れそうな男が肩で息をしながら、見せしめに殺された人々が吊り下げられている台のすぐ近くまで歩いてきた。
「間に合わなくて……遅くなってすまない。みんな、俺の所為で」
男はアリアの方を見ることは無いまま、小さく謝った。
男が逃走した所為で殺された御者や門番、他数人の、男と面識のあった者たちへ向けられた謝罪の言葉は、痛いほど震えている。
しかし言い終わるか言い終わらないかのうちに男は無抵抗のまま捕えられ、すぐさま処刑台に連れられてきた。
「なぜ、出てきたの」
男の疲れた横顔を見て、アリアは掠れた声を絞り出して聞いてみた。
「御者や門番を助けるためならまだしも、私なんて見殺しにすればよかったのではなくて?」
男はふっとアリアを見て、静かに首を振った。
「そんなことはありません。貴方だけでも犠牲にならず済んで、よかったです」
「こんな悪女、死んでも誰も構いはしないわ」
「ご自身の事を、そんなふうに卑下しないでください」
弱々しく、少しだけ困った顔をした男に対してアリアが何かを言い返す前に、男は乱暴に背中を押され、あっという間に処刑された。
男の罪は、村一つ分の人々の殺害と王家に対する反逆だった。
男は人狼族の一群を狩るという手柄の為に、村一つを犠牲にした。村の住民たちは何も知らされないまま囮にされて一人残らず無残に食い尽くされたという。
そしてそれだけではなく、他にも様々な悪事を働いていたらしい。王宮からの命令無視の常習犯だったし、彼を信頼していた仲間の兵士を無謀な作戦で何人も殺した。挙句、スラムの子供たちで剣技の試し切りまでしていたという。
それなのに自らが英雄だと言って人々を欺き、やがては王家を滅ぼし、国を乗っ取るつもりだったのだそうだ。
男が現れたおかげで自由になったアリアは、死んだ男の流れた血が固まり、色を変えるまでずっと動けなかった。
あれだけ騒いでいた人々はさっさと場所を移動し、高らかに正義を宣言する王子の演説に聞き入っているようだった。
ぽつんと広場に残されたアリアは、男が死んだ処刑台の上に上った。
(馬鹿な男ね)
悪態をついてみたが、真っ赤な死体を見下ろすと、よく分からない感情が込み上がってくる。
(ねえ。貴方、本当に村人を囮にしたの?)
別に、アリアは男のことをよく知っていたわけでは無い。
実は書面上の婚姻関係があったといっても、悪女と名高いアリアは男に嫌われていた。
名前すらしっかりと呼んだことは無いし、話したことも数回だ。
もう死んでしまった人間に語り掛ける事こそ滑稽だが、今のアリアはそんな事には構わず、動かない男に語り掛けた。
(貴方は戦いも強くて、一時は英雄と呼ばれるほど民からの信頼も篤かったわ。でも、やっぱり貴方も心の中では力や勝利に固執して、人の命を虫ケラ同然に思っていたのかしら)
死んだ男は、勿論何も言わなかった。
大勢を殺した残酷な男の罪を聞いた時、いくら悪女と蔑まれているアリアでも虫唾が走った。
自分の戦功のために大量の犠牲をも厭わないなんて、酷い悪党だと思った。
そんな男を引き摺り出す為に、彼の関係者や、彼を最後まで信じていた人たちも殺された。
(でも、それは本当に貴方がやったことなのかしら)
アリアは死んだ男の傍に屈んだ。
アリアの書面上だけの婚約者だった男は、こんな風に追われる身になる前は、人々にかなり慕われていたらしい。それこそ、この国を見守る水の女神が遣わした英雄だと言われるくらいだった。
男は、戦場では国を守る為に我が身を削り、街に帰れば傷ついた民に寄り添い、貧しい子供たちを見れば勉強を教えてやっていたという。
随分と、男の罪状とはかけ離れているようだ。男は評判のために、一時は善人を演じていたのだろうか。
(そんな器用な事が出来そうな男では、無かったと思ったけれど)
アリアは、男と初めて会った時に琥珀のように深く優しく光る男の意志の色がとても綺麗で、こんなに綺麗に光る意思があるのかと驚いたことを思い出した。
(貴方、本当は処刑されるようなことなんて、何一つしていなかったんじゃないの?さっき見た貴方の意思は、最後まで綺麗な色をしていたわ)
アリアは、死ぬ間際まで真っすぐな色を変えなかった男の意思の光を思い出して、小さく眉をひそめた。
あれは、大勢を殺して自分の欲を満たすだけの意思の色には、到底見えなかった。
アリアには、何故か人の瞳の中にその人の意思、というか、その人の性格や信念のようなものを現した色のようなものが見える。
おかしな力だが、見えてしまうのだから仕方がない。
山岳の少数民族出身の母親の血が混じっているから、アリアは小さい頃から嫌われて差別を受けてきたが、ある時から人の意思の色がはっきりと感じ取れるようになった。
母親も意思には色があると幼いアリアに語ったことがあったので、これはほぼ確実に母親から受け継いだ力だろう。
王宮内に味方がいなかったアリアは、その事実を誰にも打ち明けなかったが、その間に実に色々な人間の意思の色を見て来た。
特に、王家の人間の恐ろしいまでに強い意思の色は、避けていないと吐き気を感じる程だった。
全てを支配する権力を望むあの男の意思は不気味なブラックホールのような色をしていたし、女癖が驚くほど悪い男の意思は、爛れた赤色をしていた。
ある金の亡者の意思はメッキの金色をしていたし、承認欲求の為には何だってする女の意思は毒のようなピンク色だった。
欲深い人間たちは、自分を守るためと、自分の欲しいものの為にならなんだってやる。
(馬鹿な男)
アリアは溜息を吐いた。
何があったか分からないが、きっと、いえ、確実に。これだけは言える。
この男は何の曇りもない、人を守りたいという優しい心を持ったまま、あらぬ疑いをかけられて死んだ。
しかも男は、自分が命を賭して守ってきた民衆に死を望まれ、罵られて死んでいった。
(本当に、馬鹿な男)
悪態をついたアリアの頬を、なにかが伝って、ぼたりと落ちた。
視界が歪んで、世界の輪郭がおぼろになる。
(罪を犯していないのなら、死ななくてもよかったでしょう)
ほとんど男への嫌がらせのように無理やり宛てがわれた婚約者で、男に大層嫌われていたアリアには男の死を悼む価値など無い。
だが、この日のアリアは日が暮れるまで血に染まった処刑台の上でこぶしを握り締めていた。
善人が無残に死んで、悪党がのうのうと生き残っている。吐き気がした。
こんな気持ちになるのは、アリアの最愛の母親が王家に殺された時以来だった。