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極夜航路

作者: カニ

 二○三〇年の夏。猛暑日が日常になって久しく、焼け爛れるような日射が身罷る夜に、私は日常生活を送るようになっていた。

 いいや当時でさえも、殆どの人達は昼間冷房の効いた屋内で仮眠を取り、夜間に生産的な活動を行うような生活を余儀なくされていた。そんなある日にふとスマホでラジオを聴いていると、北極海で観測されていた最後の氷山が崩壊し、地球上から北極の海氷が完全に消滅したことを国立極地研究所の発表から知った。

 その時代の私は船舶工学を専攻していた大学生で、北極海の海氷は年々減少し、いずれ日本とロシア、北欧から欧州に至る北極海航路の重要性が増すと教えられていた。そんな認識だったもんだから、ニュースを伝えるキャスターの深刻なトーンも、語気を強めて警鐘を鳴らす研究所の学芸員の声音も、当時の私には「海上日動か三井商船の株が上がって、就活が楽になればいいな。」といった程度にしか響かなかった。


 そして、私は北極海・ムルマンスク沖約四〇海里の海上を航行している。二〇四〇年十二月十五日のことだった。

 船首が氷点下の波を切開して海面に船底を打ち付ける度、体がふわっと凍るような浮遊感に背筋を撫でられた直後、礫となった海水の飛沫が私の顔を吹き曝す。辺りは全てを吸い込みそうな夜の帳に覆われて、今が標準時の何時頃なのか皆目見当がつかない。甲板で夜の点検作業を行っている私は、時折打ち上げられた海生生物や漂流物が無いか見回る作業をしていた。尤も、極点付近では漁業廃棄物やプラスチック製品しか無かったし、北大西洋海流の恩恵を受ける海域では大量のイワシばかりが打ち上げられるだけだった。


 北極の海氷が融け切った時代でも、満天の星々は煌々たる太陽を気にすることなく、極を中心に廻っている。かたや私は大声で点検作業を行っている。


「綺麗な星だ。この星空に免じて、過酷な勤務条件は許してあげよう! でも明日はまつ毛が氷柱にならないくらい暖かくしてくれるとありがたいな。」


 この航路は南回りのスエズ=インド洋ルートとは異なり、波は高いが人は荒れていなかった。ソマリア沖やスリランカ沖のような海賊の心配はないし、ジブラルタル海峡やスエズ運河、マラッカ海峡といった地政学的チョークポイントも経由しないから、随分と安全で気が楽だった。私の勤めている商社も、年々高まり続けている国際緊張に気を張らなくていいという理由で、五年前から北極海航路を採用し始めたのだ。


「そのお陰でこの極寒か! いやしかし、いやしくも仕事が国家的である以上、戦争と同じなんだ。死ぬ気で働かなくては!」


 こう書き記した小説家の死に様は如何様であったか。そう思いを巡らせながら、今日も北海道から北海へ向かう貿易船「えとろふ」の甲板作業に戻る。コンテナの係留ロープが解れていないか確認する。時折コンテナの扉の閉めが甘くて、半開きになっていたりするからそれを閉め直したりする。


「むっ…。これも閉めが甘いなあ。」

 ガチャリとロックする。そしてまた作業に戻る。この作業をあと二時間行う。



 甲板作業を終え、ようやく船内に戻れた。凍った肺に暖かい空気が流入し、身体の芯から融解されていく。蕩け出した血液が感覚を失ってしまっている指先と耳たぶに、どくどくと赤い精気を流し届けるような感覚が全身を満たす。直後、激しい頭痛と軽い立ち眩みに襲われた。


「大丈夫ですか。鈴木くん! ほらこれを飲みなさい。毛布はいりますか。」


 眩暈と頭痛で顔と声が朧だったが、赤地に金色三本線の肩章から村井船医だと分かった。


「すいません…。すいません…。ありがとうございます…。」

「いいからそこの長椅子で横になりなさい。」


 村井船医が持ってきてくれた電気式ストーブにあたり毛布に包まって初めて、自分の体温が生命活動の維持の限界状態であることに気づいた。船医のお茶は信じられないくらい熱く、凍って鉄の風味がする咽喉を温めてくれた。


「ありがとうございました。船医。本当に危なかったです。」

「うん。君もしかしてあの寒空の中、深呼吸したり大声を出したりしていないだろうね。あの空気を吸えば体温はみるみる奪われて、たちまち低体温症になってしまうんだよ!」


 さっきまでの船医と打って変わって、少し強い言葉で詰問された。その背後に優しさがあるのは分かっているが、やはり医者に質問で責め立てられるとその答えを濁してしまう。


「いやあ…。あはは。どうも寒すぎて気分が参っちまったもんで。すいませんでした。」

「はあ…。くれぐれも気を付けてくださいよ。この件は報告して次回の航海のフィードバックとしましょうね。」


 船医がそう言ってタブレットにカルテのようなものを書き込んでいる横で、私はうとうとと寝てしまった。



 貿易船「えとろふ」は北極の寒気を置き去りにし、翌日北海へ至った。

「…。…鈴木さん。」

「鈴木! 起きんか!」


 言葉にならない生返事を返して身を起こすと、まだ少し残った頭痛がキンと響いた。優しく起こしてくれたのは村井船医だと思うが、見たところ金四本の肩章…。まずい。機関長の吉田さんだ。


「…おはようございます。吉田機関長。」

「おはようございますではない。もう昼だ。いまコンテナの卸しやってるから早く配置に就け!」

「了解しました。」

「積み替え先はどこでしたっけ。」

「ナルビクで揚げてから、アントーヤ宇宙港に運搬する予定だ。時間がかかるから早く取り掛かってしまおう。」


 ツンと冷える風を頬に感じつつ、私は甲板に出た。甲板に積載したコンテナが、港のクレーンに吊るされ運搬されていく。

「さて。」

 私は港へトラックを走らせに下の階のドックへ向かった。



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