第5章 駆け引き[2]
「……いやー、これは、想像以上だったな……」
エントランスに入るなり、ノエルは呆然とそう呟いた。旧ラッセル辺境伯邸が荒れ果てていることは知っていただろうけれど、貴族のノエルは、もっとマシな情景を想像していたのかもしれないわ。
「昨日まではもう少しマシでしたわ」
「昨日までは?」
「ええ。素人ながら、自分たちで修復したのですけれど、起きてみたら元通りだったのです」
「へえ……。それも怪奇現象なの?」
「おそらく」
「じゃあ、僕が来たのはきみたちにとって僥倖だったみたいだね」
もし私が建築魔法を使えたとしたら、こんな腹黒キャラに頼るようなことにはならずに済んだはずなのに、と少し悔しくなる。せめてチート能力でもあればよかったのだけれど。腹黒キャラに借りを作るなんて、後々どうなるかわかったもんじゃないわ。
「できるだけ自分たちで修繕したいのですけれど……」
「僕の魔法をいくらでも使ってよ。こんな簡単には壊されないと思うよ」
「いえ……」
目を細めて考え込む私に、ノエルは首を傾げる。その仕草はいわゆる「可愛い系」で、この見た目に魅了された乙女たちも少なくないのよね。
「ボロボロのままで保ちたい気持ちもあるのです。このいかにも幽霊屋敷という光景……堪らないと思いませんか?」
「え……」
ノエルは目を丸くし、エントランスをぐるりと見回す。彼の目にこの光景がどう映っているかはわからないけれど、人間が住む環境に見えないとしたらそれは間違っていないわ。暮らしているのは人間ではないのだもの。
「まあいいや。必要なところだけ僕に任せてよ。与えられた環境を受け入れていると言っても、生活にどうしても必要なところはあるでしょ?」
「まあ……そうですね。でしたら、エントランスはこのままでも構いませんわ。ここは生活には必要ありませんから。ここは私たちで修復しますわ」
「それもそうだね。どこが必要か教えてもらえる?」
「ええ」
真っ先に修繕する必要があるのは寝室だわ。このままでは健康にも悪いし、なによりアンネッタが安心して寝ることができなくなってしまう。アンネッタの心身の健康のために、寝室の修繕が最も必要なことだわ。
寝室に案内すると、うわあ、とノエルは思わずといった様子で感嘆を漏らした。
「これは酷い。人間が寝る場所とは思えないよ」
「ええ。ですので、一番、先に修繕したのですけれど……」
「怪奇現象で元通り、か。わかった。僕に任せて」
ノエルは、ロランが運んで来た木材に向けて手をかざす。ノエルの手のひらから溢れた光が木材を包むと、ふわりと浮かんで宙を漂った。ノエルは反対の手を工具に向けて振る。ノエルの手の動きに導かれ、木材はぼろぼろの床に置かれ、工具がひとりでに釘を打った。ノエルは次に、私とアンネッタが寝ているベッドに向けて手をかざす。ベッドがふわりと浮き上がり、その下の床板を魔法が修繕する。
修繕はあっという間だった。穴が空いていたのが嘘のように床板は綺麗に整えられ、壁にも新しい木材がよく馴染んでいる。ついでに、とノエルはカーテンとベッドのシーツも張り替えられ、怪奇現象の屋敷とは思えないほど清潔な部屋へと変貌していた。
「どう? こんな感じでいいかな」
「ええ、ありがとうございます、ノエル様。見違えましたわ」
「すごい……」アンネッタが感嘆を漏らす。「これが建築魔法なのですね」
ノエルが建築魔法を持っていることはステータスを見て知っていたけれど、ゲームのシナリオに直接に関わることはなかった。サブストーリーに「ノエルが拾った子犬の犬小屋を建てる」というシナリオがあって、ノエルが子犬を拾うというギャップを演出するためにイベントね。けれど、本編でノエルが建築魔法を使うシーンは一度もないわ。なんのための設定だったのかしら?
「じゃあ、ルヴィ嬢。ひとつ済んだし、ひとつ質問していいかな」
「……ええ。構いませんわ」
「魔王軍がこの国に攻めて来るのはいつ?」
私は拍子抜けしていた。まずは「どうして知ってる?」という質問が来ると思っていたわ。けれど、修繕する場所はそう何個もあるわけではない。質問できる回数が限られているとなると、国を守るための情報が必要ということだわ。
「いまから半年後です。いますぐ防衛軍を結成する必要がありますわ」
本来なら、ヒロインが聖女のお告げとしてこれを国に進言するはずなのだけれど、ノエルの反応を見るに、そこを怠っているようだわ。きっと攻略対象を攻略することに夢中なのね。ヒロインが転生者であるという確証はないけれど、この時点で国が防衛軍を結成しなければ魔王軍の侵攻に間に合わなくなる。攻略対象との幸せな日々は、近いうちに粉々にされるはずだわ。
「魔王軍は小さな軍隊から徐々に大きくなっていきます。それに合わせた編成が必要になりますわ」
「騎士団に必要なものは?」
「あら、質問はひとつにつきひとりですわ」
わざとつんとして言う私に、ノエルは気を悪くするどころか楽しげに小さく声を立てて笑った。
「わかった。次はどこ?」
「執事の寝室をお願いしますわ」
「了解。案内して」
最初の夜はロランも同室にしたけれど、いまは客間――だったらしい部屋――で寝泊まりしている。ロランの部屋も同じ状態なら修繕が必要になるわ。
ロランの寝室を見るや否や、うへ、とノエルはまた顔をしかめた。
「こっちも酷い。人が暮らせる場所じゃないよ」
「人が暮らせる場所にしてくださるのでしょう?」
私はあえて挑発的に言って見せる。ノエルは、ただ可愛いヒロインというだけで攻略できるようなキャラクターではない。腹黒キャラというだけあって、こちらも少し捻る必要があるわ。
案の定、ノエルは楽しそうに目を細める。
「いいよ。任せて」
ノエルは先ほどと同じように建築魔法で部屋を修繕する。まるでプロの大工が修繕したように綺麗な部屋になり、これならロランの安眠も保障されたわね。
「ありがとうございます、ノエル様」ロランが辞儀をする。「助かりました」
「いいよ、いいよ。僕の建築魔法はなかなか役に立てる場面がないんだ」
ノエルは少し寂しそうな表情になる。メインストーリーで発揮しなかったのは、乙女ゲームで建物を修繕する必要があるイベントなんてそうそう起こらないからだわ。だからこそ、ノエルが建築魔法を使えるという設定の意味がよくわからないことになるわね。
「じゃあ、次の質問、いいかな」
「はい。騎士団に必要なもの、でしたわね」
「うん」
私の頭の中に、ヒロインと攻略対象が魔王軍と戦うシーンが思い起こされる。この「花舞う季節の恋乙女」の世界では、ヒロインも攻略対象も能力値を上げる必要がある。エンディングを迎えるためには、魔王軍との戦いが避けられないからだ。
「まずは防具を重点的に揃えてくださいませ。魔物は人間より攻撃力が高い……。守りを強固にする必要がありますわ」
「攻撃を強化するより守備を固める必要があるってことだね」
「いずれ攻撃も強化する必要があります。ですが、まずは守りを」
「わかった」
ノエルは真剣な表情で私の話に耳を傾けている。この国を守りたいという意思は確かなもののようだわ。
「で? 次は?」
「次は厨房をお願いしますわ」
「厨房ね。確かに生活では必要な場所だ」
ノエルの建築魔法を使うと、いままで私たちがかけた労力が馬鹿みたいに思えて来るわ。数日はもったのだから無駄とは言わないけれど、ノエルがアスタに攻略されていないのなら、もっと早く頼るのも手だったかもしれないわね。と言っても、魔王軍の侵攻を受けるという情報がなければノエルはここに来なかったでしょうけれど。
厨房の修繕は、床や壁だけではなく、調理台や調理器具までまるで新品のようにピカピカになった。こんなに便利な魔法が本編では持ち腐れになっていたなんて、もったいないにも程があるわね。
「さ、こんな感じでどう?」
「素晴らしいですわ。これで食の清潔さが保たれますわ」
「これまで食事はどうしてたの?」
「調理器具を持参しておりましたので、外で調理していました。ここより外のほうが清潔でしたから」
「確かに、厨房があんな感じじゃあね……」
これからはロランの料理の腕が遺憾なく発揮されるようになるわ。これからの食事には期待できそうね。
「それで、次の質問はなんですの?」
「アスタ嬢のことだよ」
ついに来たわね。アスタはクリスティアン王太子を攻略したようだけれど、この調子では、聖女という設定は蔑ろにしているみたいだわ。それでは王太子を攻略した意味もなくなってしまうのだけれど、聖女だからなんとかなる、という頭でいるのかもしれないわね。現実はそんなに甘くない。そう。この世界は、私たちにとって現実世界となった。何もかもゲームの通りにはいかないわ。
「アスタは確かに聖女として王家から認定された。けれど、魔王軍のことなんて一度も口にしたことがない。アスタは魔王軍の侵攻を知らないということだよね」
「知らないはずはありません。聖女として認定されているなら、神託を受けているはずですわ」
「どうしてきみはそれを知っている?」
私はもったいぶるように目を閉じる。私が転生者であることを明かすわけにはいかないけれど、事実を少し脚色する必要があるわ。
「私も、神託を授かったからです」
「本当に?」
ノエルは驚いて目を見開く。神託を受けるのは聖女ばかりではない。神官など、聖職者として清く生きる者たちなら神託を受けることもある。ルヴィ・サフォーリアがそんな生活をしていたとは思えないけれど、ノエルがルヴィのことを詳しく知っているはずがない。もともと興味はなかったはずなのだから。
「アスタ嬢が聖女だと知っていたのも、神託を受けたからなの?」
「……はい。聖女であるアスタ嬢がいればこの国は平穏を保てる……そう思っていたのですが、どうやら、アスタ嬢は聖女であることを放棄しているように見えましたわ」
「……それは間違っているとは言えない。確かに、アスタ嬢が魔王軍のことを口にしていたという話は聞いたことがない。きみの神託が確かなら、アスタ嬢はすでに聖女として神託を受けているということだよね」
「おそらく」
「……これは、笑えない状況になってきたな」
ノエルは真剣な表情をしている。いくら腹黒キャラといっても、この国の存続がかかっていれば、取引などと言っていられなくなる。国が滅べば、すべての民が行き場を失うことになる。アスタがそれを想像できていないとすれば、プレイヤー気分が抜けていないのだわ。
「もう少し聞きたいことがあるんだけど……次はどこを修繕すればいいかな」
「では、ダイニングをお願いします。それが終わったら、お茶にいたしましょう」
穏やかに言う私に、ノエルは無邪気な笑みを浮かべた。
「幽霊屋敷でお茶を飲むなんて、なかなかできる経験じゃないだろうね」
「貴重な経験をご提供できて何よりですわ」
「進んで経験しようとは思わないけどね」
「せっかくの機会ですもの。楽しんでくださいませ」
ノエルは楽しそうだ。どうやら、好感度を上げることができたみたい。ノエルの背後でパパが怖い顔をしているけれど、いまは見えていないふりをしておきましょう。