二匹
教室のドアを開き自分の席に座った。窓の外は快晴で、とても清々しい。
「いい天気。放課後は一葉と買い物しようかな」
独り言を漏らす。まだ中学生の時クラスメイトたちが遊びに行くと話していて、樹里もついて行こうとした。しかしすぐに里美から電話がかかってきた。
「今、どこにいるの?」
「まだ学校の中だよ。これからゲームセンターに行くんだ」
「ゲームセンター? だめだよ。そのまま帰ってきなさい」
「やだ。あたしだって、ゲームセンターで遊びたい」
少しわがままな口調で返す。すると里美は低い声に変わった。
「お父さんに教えるよ」
「え?」
「もしお父さんが知ったら、どうなるか……。わかってるよね?」
直樹は樹里を自分の命より大事にしている。帰らなかったら、警察まで呼んで探し回るだろう。
「お、お父さんにはバラさないで」
「じゃあ帰ってくること。帰らなかったら全部バラすよ」
仕方なく電話を切った。どうして自分ばかり、こんな目に遭うのか。狭いカゴの中に閉じ込められているような気分。早く解放されたい。ずっと願ってきた。
「ねえ、一人で暮らすのって、楽しいかな? 寂しいかな?」
一人暮らしをする前に、一葉に聞いてみた。首を傾げながらも答えてくれた。
「ちゃんと自分の家があるなら、寂しくはないんじゃない?」
「自分の家?」
「ただいまって言ったら、おかえりって返ってくる場所だよ。優しいお父さんとお母さんが待っててくれる。そういう空間があれば」
「優しいお父さんとお母さん? 何かよくわからないや」
というか、父も母も子供想いで優しいのが当たり前ではないのか。みんな愛に包まれて過ごしている。樹里には、はっきりと想像できなかった。
「あっ。金森先生だっ」
過去の出来事が消え、はっと顔を上げた。俺は性格が悪いんだと、表情で伝わる。
「ほら。さっさと席につけ」
「はーいっ」
女の子たちは嬉しそうだが、樹里はいつもと同じく無表情だった。本当に、この男がいなくなれば天国になるのに。
「よし。次の問題を赤城が解け」
その日も樹里の名前を呼んだ。しかもかなり難しい問題で、解けるわけがなかった。
「わかりません……」
「何だ? ちゃんと授業受けてれば解けるだろ。やっぱり赤城は馬鹿だな」
くっと悔しさが溢れる。仕方なく黙り、金森は他の生徒を当てた。その女子はスラスラと解け、また樹里を嘲笑った。
「もっと真面目に授業を受けろ。それとも中学校からやり直すか?」
クスクスと小さな笑いが耳に入る。返す言葉がなく、なぜ嫌味を言ってくるのかと考えた。
宿題も、樹里にだけ多く出した。
「こんなにたくさん? 多すぎですよ」
「必ず終わらせろよ。徹夜すればいいだろ」
「徹夜って……。体に悪いじゃないですか」
「つべこべ言わず、全部終わらせろ。その頭を鍛えなくちゃならない」
鋭く睨みつけられて、取り付く島もない。とりあえず、言われた通り宿題は徹夜をして、何とか間に合った。
「これでいいですか」
ぶっきらぼうに提出する。さっと目を通し、曖昧に頷いた。
「まあいいだろう。きちんと頭の中に入ってるよな?」
「入ってますよ。ふああ……。眠い……」
あくびをして、金森の返事が飛んでこないうちに職員室から出た。
寝不足なので、授業中は居眠りをした。バシッと教科書で頭を叩かれた。
「いったあ……。何するんですか」
「寝てるからだ。さっさと起きろ」
「うるさいなあ。もう……」
「うるさいのは赤城のイビキだ。クラスメイトに迷惑かけて」
どきりとした。周りの視線が、樹里に集まっていた。恥ずかしさで頬が赤くなってしまう。
その日も、樹里だけ宿題が多かった。
「だから、無理ですってば」
「昨日は終わらせたんだから、今日もできる」
「さっき居眠りしたのは、金森先生のせいなんですよ。徹夜だったから寝不足で眠ったんです」
「もっと頑張れば、徹夜しなくても終わる。赤城の努力が足りないんだ」
やはり取り付く島はない。くっと悔しい思いを堪えて黙った。
その後も樹里にだけ宿題を多くし、金森のせいで疲れとストレスが溜まっていく。一葉に毎日愚痴った。
「さっさと教師やめてくれないかな。あのナルシスト野郎。見るだけでイライラする」
「樹里の気持ち、よくわかるよ。一人だけ嫌がらせだもんね」
「そうなの。一葉だけだよ。そう言ってくれるのは」
ぎゅっと一葉の手を握る。愚痴を聞いてくれる親友がありがたかった。
学校全体が、金森に気を遣っているみたいだ。校長も金森にだけ敬語だし、不快になってくる。それがまた「俺は素晴らしい人間だ」という自信に繋がってしまう。実際には、性格が歪んでるとても尊敬できない奴なのに。
二年になれば担任が変わる。来年までは、何とか耐えようと決めた。
クラスメイト達に、金森はナルシスト野郎だと教えた。
「え? ナルシストかな?」
「あたしはそう思えないけど」
「ナルシストじゃん。みんな気づかないの?」
「気づかないの? って……。実際にナルシストじゃないから」
「赤城さん。勘違いしてるよ。金森先生に似た人がいたんだよ」
好きな人を悪者扱いしないでほしい。樹里もこれ以上言うのはよくないと黙った。
月曜の昼休みに、職員室に来るように言われた。ドアを開けて金森の机に行く。
「何ですか?」
「明日から、放課後は赤城だけの授業をするぞ」
「あたしだけ? どうしてですか?」
「あまりにも頭が悪いから、鍛えてやる必要があるだろ」
「あたし、早く家に帰りたいんです」
「なら、土日に学校に来い。朝から夕方まで、みっちりと勉強だ」
「いいです。勉強は一人でできます」
「できないから、どんなに簡単な問題も解けないんだろ」
ぎろりと睨まれる。樹里も抑揚のない口調で答えた。
「大丈夫です。心配しなくても」
「じゃあ、次のテストで九十点以下だったら、赤城だけの特別授業を始める」
ぎくりとした。数学のテストで九十点をとるなど至難の業だ。
「あ、あたしのことは放っておいてください」
「必ず九十点だからな。八十九点でもだめだからな」
どうしようと冷や汗を流しながら、後ろを振り返り歩いた。
教室に戻って、すぐに一葉に愚痴った。
「どうしてそんなこと決めるのよ。あたしにばっかりガミガミ怒って。他にもテストの点低い子だっているのに」
「やっぱり、樹里に気があるんじゃないの? 大事な人だから、頭がよくなってほしいって」
「違うよ。ただの嫌味だよ。マジで性格悪すぎ。仕事の疲れで八つ当たりしてるんだよ。ねえ、一葉。どうすればいい?」
「うーん……。九十点とれるように勉強するしかないね。あたしも手伝うから、二人で頑張ろう」
「いいの? ありがとう」
女神みたいな一葉に、すぐに感謝を告げた。思いやりがあって優しい一葉が親友でよかった。
翌日から、テスト勉強を始めた。もちろん大の苦手な数学なので、ペンが止まってしまう。一葉が家庭教師になってくれるが、九十点をとれるのだろうかと不安が募る。
「うう……。九十点なんて……。一葉がそばにいてくれないと、解けそうにないよ」
「とにかく、その授業を避けるために頑張って。次のテストだけ九十点とれればOKなんでしょ?」
「そうみたいだけど。全く、あのナルシスト野郎のせいで……」
確かに頭が悪いが、ここまで嫌味な態度をとるのは酷すぎる。周りの人たちにも「赤城っていう馬鹿な生徒がいて毎日疲れている」と言いふらしているに違いない。いくら外見が整っていても内面が歪んでいては、とても美しいとは言えない。みんな、金森の本性に気づいてないのかと、イライラが増していく。