十一匹
住む場所や名前を与えてくれたのに、七年間もそばにいるのに、金森に心を開かない大牙。だったら樹里にはもっと距離をとって、信用しないだろう。樹里も、あんなオオカミ男とうまく付き合う方法など一つも思いつかなかった。しつけ役をしたくないから、一人暮らしをやめてしまおうか。けれど直樹や里美に大牙の存在を気づかせてはいけない。恐ろしいオオカミ男の姿を二人に見せて驚かせたくなかった。いきなり、こんな事件が降りかかってくるとは……。
ただ、金森が助けてくれるというのはよかった。きちんと相談に乗ってくれるかはわからないが、とりあえずメールアドレスと電話番号を携帯に登録した。
「これでよし。ちゃんと話、聞いてくれますように……」
神に祈り、携帯を鞄にしまった。
ずっと部屋に引きこもっているらしいが、他人が嫌なのか。誰とも会話をしたくない、目も合わせたくないと考えているのか。では、どうしたら樹里は大牙との距離を縮められる? 自己紹介をしただけでコップを投げつけた。樹里に心を開くわけがない。
「無理矢理、外に連れ出すしかないのかな」
言葉を素直に聞くような人間ではないので、腕を引っ張ろうと決めた。頭の中で答えが見つからない時は、さっさと行動した方がいい。もう行き当たりばったり。どうにでもなれ。樹里は拳を固めた。
二週間が経って、大牙が向かいの部屋にやって来た。土曜日の朝、ドンドンとドアを叩かれ外に出ると、大牙が目の前に立っていた。インターフォンを押すというのを知らないらしい。
「ああ。大牙くん。お、おはよ……」
「お前のせいだからな」
ぐいっと胸ぐらを掴まれた。だらだらと冷や汗が流れる。
「あ、あたしのせい?」
「そうだ。お前がしつけ役をしたいなんて言ったから、マンションから追い出された。全部、お前が悪い」
「待って。あたしも金森に騙されたの。勝手にしつけ役にされたんだよ」
「はあ? 意味わかんねえ。どうしてくれるんだよ。俺の人生、めちゃくちゃにしやがって」
「わ、わかった。謝るよ。ごめんね。もう放して」
掴まれていた手が放れ、樹里は息を整えた。しかし、まだ大牙は鋭く睨みつけてきた。
「いくら謝ったって許さねえよ。慧人のマンションには戻れないんだから」
返す言葉を失った。いきなりしつけ役を押し付けられた上にこんなことを言われたら、どうすることもできない。
「……まあいいや。お前の顔見てると、気分悪くなってくるし。またな」
そして大牙はドアを閉めた。ほっと安心して、冷や汗を手で拭う。
緊張とストレスでいっぱいになりながらの生活。引き受けると話した自分を、強く責めた。
昼頃に、金森からメールが届いた。
「月曜日から、大牙を学校に通わせる。何か問題が起きないように、見張っててくれ」
どよーん……という音が、耳の奥で聞こえた。今まで一匹オオカミで暮らしていた大牙が、大人しく授業を受けていられると思えない。というか、部屋にこもっていたのに高校生の勉強が理解できるのかという不安もある。もしかして、小学生並みの頭脳しか持っていないのではと、金森にメールを送る。すぐに返信がきた。
「大丈夫だ。俺が教えてきたからな。すでに大学四年の勉強まで終わってるよ」
「え? そうなの?」
驚いた。クラスメイトの誰よりも頭がいいという意味だ。金森のことだから、数学だけではなく全教科教えているはずだ。
「……勉強の問題は解決したけど……。どうか暴れないでいてほしい……」
生徒たちに、どんな態度をとり、争いが起きてしまった時どうやって止めるか。大牙のしつけをしている樹里まで白い目を向けられたら。ありとあらゆる疑問が胸に溢れ返る。
翌日は、樹里の方から大牙に近づいた。インターフォンを押すと、かなりの間を空けてからドアが開いた。
「何だ。お前か」
「大牙くん。制服、着れる?」
「は? 着れるに決まってんだろ」
「ネクタイの結び方、知ってるのかなって思って。今のうちに練習しておいた方がいいよ」
「ネクタイなんか、始めから付けねえよ。あんなの付けても意味ねえだろ」
「茜谷高校では、ネクタイ付けないとだめなんだよ」
面倒くさそうに、大牙はクローゼットからネクタイを持ってきた。自分で結べるのか確かめたところ、やはりできなかった。「こうするんだよ」と樹里が話しても、全く真面目に聞いていない。仕方なく、樹里がネクタイを結ぶことに決めた。
「ちゃんと自分でも練習してね。ずっとあたしが結ぶなんて嫌だよ」
「うるせえな。女って、みんな口うるせえのかな」
「大牙くんのためを思って言ってるんだよ。本当はあたしだって、しつけ役なんかしたくないの」
むっと睨む。大牙は無視をして目を逸らした。
月曜日、金森のメールの内容通り大牙は学校に通い始めた。アパートのドアを開けると、同時に大牙が現れた。ネクタイが首にかかったままなので、しっかりと結んであげる。その手つきをじろじろと観察され、どくんどくんと心臓が速くなっていく。どうかずっと大人しくしていてくれと、神に願う。
クラスでは、突然の転入生に盛り上がっていた。
「男の子だって。かっこいいのかな」
「もしイケメンだったら、電話番号交換してもらおうっと」
「あっ。ずるーい。あたしも交換してもらうよ」
そんな性格じゃないんだよ、と不安が募っていく。
金森が教室にやってきて、転入生の紹介をした。
「今日から、このクラスの生徒になる黒瀬大牙だ。入ってきなさい」
呼ばれ、ゆっくりと大牙が姿を見せる。うわあっと驚きの声があがった。
「すごい……。背、高い……」
「めっちゃかっこいいよ。マジであたしの好きなタイプ」
「素敵。一目惚れしちゃう」
女子たちの瞳がハート型になっていて、かなり焦った。告白なんかしたら、絶対に暴れるに違いない。がくがくと体が震える。
「よし。黒瀬の席は、赤城のとなりだ」
小さく頷き、樹里の元へ歩いてきた。ちらりと視線を向けてきたが、すぐに窓の外へ目を動かした。
「ねえねえ、大牙くん」
耳元で、こっそりと囁く。
「何だよ」
「大人しくしててね。イライラしても、叫んだり乱暴なことしないで」
だが大牙は返事をしなかった。それは俺の勝手だろとでも言っているようだ。
授業中は、何とか静かなままでいてくれた。昼休みに、大牙を連れて誰もいない教室へ移動した。
「ふう……。冷や冷やしちゃうよ」
「俺が怒鳴ったり、物投げたりしないかって?」
「そうだよ。その通りだよ。大牙くんはオオカミだからね。キレたら、どんな態度とるのかわからないよ」
「自分が蒔いた種だからな」
じろりと見つめられる。またお前のせいだと悪者扱いされてしまう。
「どうも、すみませんね。謝っても許してくれないみたいだけど」
「それより、腹減ったな。ちょっとコンビニ行ってくる。慧人が、近くにコンビニがあるって話してた」
「ああ。そういえば、新しくできたんだよね」
「お前は? 食うもんあんのか?」
「うん。お弁当があるから。大牙くんの分だけ買ってきなよ」
「そうか。じゃあ、行ってくる」
くるりと振り返り、大牙は教室から出て行った。
「本当、何考えてるのかわからないよ……」
呟き、樹里も弁当の蓋を開けた。
十五分ほどで大牙は戻ってきた。パンとコーラを入れたビニール袋を持っている。
「いつも、そういうもの食べてるの?」
聞いてみると、大牙はこくりと頷いた。
「そうだ。簡単に済むメシで充分だしな」
「体によくないよ。ちゃんと栄養のあるご飯を食べなきゃ」
「俺は昔からこういう安いもので生きてきたんだ。金もねえから、万引きばっかり。お前には、家族も住む場所もないっていう暮らし、想像できねえだろ」
「どうしてそんな暮らしをしてたの? まさか親に捨てられたの?」
「さあな。産んだけど面倒くせえから育児放棄したんじゃねえの。どっかの優しい誰かが、代わりに親になるって」
どんどん大牙の口調が暗くなっていく。他人を信用しないのは、親に捨てられたという絶望が原因かもしれない。
「金森に拾ってもらわなかったら、死んでたんでしょ? 酷すぎるよ。育児放棄なんて、絶対にしちゃいけないよ。人間失格……」
「いいよな、お前は。親に大事にされてきて、不安も悩みもなくぬくぬくと生きてこれて。俺の気持ちなんか伝わらないだろうな」
幸せな過去を持つ樹里を妬んでいる。樹里だけではなく、この世の人たちに嫉妬している。だから好きになれない。
「そ、そんなふうに考えないで。きっと大牙くんの思いが伝わる人が、どこかにいるはずだよ。金森が大牙くんをマンションに連れてきたのも、悲しいって思いが届いたからでしょ? あたしだって、大牙くんの思い、はっきりと……」
「うるせえっ」
突然、大声を上げた。びくっと体が震える。さらに大牙は怒鳴った。
「散々親に甘えてきたくせに、偉そうなこと言うな。お前に何がわかるっていうんだよ」
「そ、それはそうだけど。あたしでよければ、辛かった頃の話聞くよ」
「お前に話すことなんか、一つもねえよ」
パンのゴミを丸めてビニール袋に入れ、樹里の方へ投げつけた。痛くはなかったが、寂しさが胸に溢れる。大牙は立ち上がり、大股で教室から出て行った。樹里は食欲が失せて弁当を半分以上残し、昼休み終了のチャイムが鳴るまで指一本動かせなかった。