十匹
ソファーに腰かけ、金森は大牙について説明を始めた。樹里は向かい合わせに座り、その横に大牙も座った。じろじろと樹里を観察している視線に、体が石のように固まる。
「大牙。あんまり他人のこと見るんじゃない。失礼だろ」
「だけど……。何こいつ……」
「まあ、女をすぐ近くで見たことはないから、不思議なのはわかるけど」
ずっと部屋に引きこもってたせいで、礼儀がなっていないのだろう。ふん、と大牙は目を逸らした。
「さて、大牙。お前はもう十六歳になった。これからはマンションから出て、外の世界を知らなくちゃいけない。この赤城が、お前に教えてくれる」
「は? 教える?」
「そうだ。赤城も自己紹介しろ」
「え、えっと……。あたし、赤城樹里と申します。黒瀬くんのしつけ役に……」
「ふざけんなっ。女に教えてもらうなんて、嫌に決まってるだろっ」
大牙は驚いて、大声を上げた。さらに樹里を痛いほど睨みつける。
「わがままな態度とるな。赤城、頼んだぞ」
「頼むって言われても……」
すると大牙は、テーブルに置いてあったコップを壁に投げつけた。本当は樹里に投げつけたかったようだが、さすがにそれは酷すぎると壁に八つ当たりしたのかもしれない。ガシャンッと音を立て、コップは粉々に砕けた。
「ひゃあっ」
「乱暴なことするなっ。赤城が怖がってるだろっ」
金森が怒鳴ると、大牙は小さく舌打ちをした。樹里は全身から、冷や汗が滝のように噴き出した。
「もう一度言う。お前は、もうここにいたらだめなんだ。きちんと外に出て、一人でも暮らせるようにならないと。俺も、いつまでも面倒を見ていられない。十六歳は大人と同じだ。今、自立しないとだめ人間になるぞ」
「そんなの、どうだっていいだろ」
「どうだっていいだろ、じゃない」
金森は、大牙を鋭く睨んだ。こんな顔をした金森を見たのは初めてだった。
「お前は、まだ何もわかっちゃいない。いつまでもマンションにいられると考えてたら大間違いだ」
そして、樹里の方へ視線を向けた。
「赤城。大牙を普通の人間に変えてくれ。そばにいて、見守ってやってくれ。頼む」
心臓がどくんどくんと速い。こんなに粗暴で野蛮なオオカミ男を変える力など持っていない。
しかし、断る勇気も生まれなかった。どんな返事をしようか迷っていると、大牙は立ち上がって部屋に入ってしまった。
「こら。大牙。逃げるな」
「も、もういいじゃないですか。黒瀬くんの気持ちもわかってあげましょう。誰にでも独りになりたい時ってありますから」
金森の腕を掴み、フォローするように言う。金森はため息を吐き、ソファーに座り直した。
「で? しつけ役、引き受けてくれるか?」
「それは……」
「たぶん、赤城には悪いことはしないと思う。女には襲いかかるなって教えてきたから」
「そう……ですか。あたしにできることはないと思いますけど……」
「やってくれるんだな?」
「は、はい……」
小声で答えると、金森は頷いた。
その夜は金森のマンションに泊まったが、一睡もできなかった。あのオオカミ男と、どんな日々を送るのだろうか。乱暴でわがままで、キレると物を投げてくるような性格。
朝になって、うつらうつらで部屋から出ると金森が朝ご飯を食べていた。
「よく眠れたか?」
「眠れるわけないでしょ……」
「とりあえず食え。腹がいっぱいになったら、気分も晴れやかになるぞ」
そんなに単純じゃないと軽く睨んだが、料理を口に放り込んで驚いた。一流シェフのようにおいしかったのだ。
「これ、先生が作ったの?」
「そうだ。うまいだろ」
「え……。すごい。どうやって練習したの?」
「俺は練習なんかしなくても、何でも器用にこなせるんでね」
またナルシストの自慢だが、特に気にならなかった。さらに、こんがりと焼けたトーストにかじりつく。
「おいしい。毎日作ってもらいたい」
「俺の手料理が食べられるなんて、ありがたいことなんだぞ。感謝しろよ」
ふと、大牙は何を食べているのかと疑問が浮かんだ。
「黒瀬くんって、いつもどんなものを食べてるんですか?」
「もしかして、オオカミだから生肉食ってるって考えたのか?」
「違うんですか?」
「人間なんだから、普通のメシだよ。でも、わざわざ作ってやらなくても自分で用意するから、心配はいらないぞ」
「え? そうなんですか?」
「他人に助けてもらうのが、一番嫌いなんだ。小さい頃、誰も自分を助けてくれなかった。だから未だに俺を信用してないし、ありがたみも感じていない。味方はどこにもいないって思い込んでる」
「あたしが、その性格を治すってことですか?」
「治すというか、とにかくあいつの心を開いてほしい。どういう思いで生きているのか、どうやって生きて行こうと決めてるのか」
はあ、と息を吐いた。大牙の心の扉を開くなんて、心理カウンセラーではないのだから樹里には不可能だ。
「どうして、あたしに頼むんですか? あたしじゃなくたっていいじゃないですか」
しかし金森は首を横に振った。
「赤城にしかできない。あいつと一緒にいられるのは、赤城だけだ」
なぜそう断言するのかがわからない。
「大牙に、生きてるのは素晴らしいっていうのを見せてやってくれ。他人と関わるのは楽しいって。俺もたくさん宿題の手伝いをしてやっただろ。次は赤城が俺に手伝いをする番じゃないか」
はっと目が丸くなった。やけに親切な態度をとっていたのは、これか。まんまと騙されてしまったと、悔しくなった。
さらに、金森は恐ろしいことを言った。
「赤城のアパートの向かいが、大牙の部屋になるからな」
「えっ?」
椅子から勢いよく立ち上がった。
「向かいって……。というか、何であたしのアパート知ってるんですか?」
けれど金森は答えず、続けた。
「俺のマンションから追い出さないと、また引きこもるだろ。あいつを自立させるために、赤城に協力してもらうしかないんだ」
「じょ、冗談じゃないです。アパートまで一緒なんて、絶対に嫌です。あたし、黒瀬くんに殺されますよっ」
「殺すわけないだろ。赤城が大牙の気に障るようなことしなければいいだけだ」
「昨日の態度……。完全にオオカミでしたよ。キレたら何されるか……」
「お前、犬好きなんだろ? それなら大丈夫だ」
「犬とオオカミは違います。全然別物です。それに黒瀬くん、人間だし」
しかし金森は聞く耳持たずで、さっさと話を変えた。
「じゃあ、帰るぞ。車で送ってやる」
完全に取り付く島はなく、がっくりと項垂れた。樹里もこくりと頷き、とりあえずアパートに戻ろうとだけ考えた。
車から降りる直前に、金森から小さな紙切れを渡された。
「何ですか?」
「俺のメールアドレスと、携帯の電話番号。大牙と喧嘩したり、助けてほしい時は俺を呼んでくれ。遠慮しないで、必ずかけるんだぞ」
「……わかりました」
そっと呟き、紙切れを鞄にしまった。
そういえば、学校の女の子たちは金森のメールアドレスや電話番号を知りたいと嘆いている。ナルシストで気に入った人としか関わらない。こんなふうにマンションに泊まらせたり手料理を作ってくれたのは、ほんの僅かだが優越感に浸る。もちろん、あの粗暴で野蛮な大牙と過ごさなければならないので、すぐに心は真っ暗になった。
「送ってくれて、どうもありがとうございました」
「頑張れよ。応援してるからな」
「はい……」
そして車から降り、ドアを閉めてアパートへ向かった。
まさか、自分がオオカミ男のしつけ役をするハメになるとは……。黒瀬大牙というオオカミ男。十六歳なので、学校でもそばにいなくてはいけないのか。楽しかった学校生活が、大牙の世話で潰される。あまりにも空しすぎる。金森は「大牙の気に障るようなこと」と話していたが、まだ会って数時間の樹里には大牙の好き嫌いなど知らない。どんなことでイラつくのか。何が原因で怒っているのかも不明だ。
「お父さんは、そんな予感がしてるんだけどな。樹里が嫌な目に遭って、疲れとストレスでいっぱいになってるっていう」
「何か困ってない? 大変なことが起きたりしてない?」
直樹と里美の声が同時に胸に蘇ってきた。やはり親のいうことは間違いないと、今になって後悔した。