九匹
しかし、意外と早く金森の心の中は明らかとなった。
いつも通り勉強を教えてもらい帰ろうとすると、金森に腕を掴まれた。
「待て。ちょっと来てほしいんだよ」
「え? どこに行くんですか?」
「俺のマンション。大事な話があるんだ」
ぎくりとした。一応若い男性なので、高校生の女の体に興味があってもおかしくない。
「い、嫌です。あたし、まだそういうの……。恥ずかしい……」
「いやらしいことされるって怖がってんのか? そんなことするわけないだろ。高校生なんか子供だし」
「本当ですか? 脱がしたりしませんか?」
「お前、自分が可愛いって勘違いしてるのか? チビだし胸はないし。他人に言ったら馬鹿にされるぞ」
むっとしたが、確かに魅力的ではないので黙った。
そのまま金森に引きずられ、高級車に乗せられた。三十分ほどで車は止まった。
「着いたぞ」
窓の外に、大きなマンションが建っている。どきどきしながら車から降り、先ほどと同じく引きずられながら八階へ上った。
ドアを開けると、あることに気が付いた。玄関にもリビングにも電気が付いている。金森が消し忘れたのかもしれないが、少し不自然だった。さらに「ただいま」と奥の部屋へ声をかけている。普通、「ただいま」と言われたら「おかえり」と答えるだろう。けれど返事は聞こえない。
「あの……。誰かいるんですか?」
背中から聞くと、金森は深くため息を吐いた。
「そうだ。今日もだめか……」
「だめ? 何が?」
「七年間もそばにいるのに、全然心を開いてくれないんだよ」
「心を開いてくれない?」
「あの部屋の中にいるのは、オオカミ男だ。本当に、一匹オオカミみたいに暮らしてきたんだ」
「え?」
驚いた。金森が、こんなことを言うとは思っていなかった。
「家族もいない。住む場所もない。名前すらなかった。九歳の少年がホームレス生活してたら、いつか死ぬだろ。だから俺がマンションに連れてきて、面倒見てきたってわけだ。あいつを死なせたくなかったからな」
「そ、そうだったんですか。大変でしたね」
「いくら待っても、心を開かない。というか、俺のことを信用してない。毎日、ああやって部屋に閉じこもってる。俺が学校にいる間に、メシ食ってるらしい。教師は、一日中外に出てるだろ」
樹里は黙った。オオカミ男がこの世に存在していたことだけでも驚きなのに、金森がそのオオカミ男を育てていたなんて。
「あの……。オオカミって言っても、人間ですよね?」
「当たり前だ。どこまで馬鹿なんだよ」
むっとしたが、もう一度聞いた。
「それで、そのオオカミ男がどうかしたんですか?」
金森は、その言葉を待っていたというように、ふっと小さく笑った。
「これからは、赤城がオオカミ男の面倒を見るんだ」
「はい?」
「赤城が、オオカミ男のしつけや世話や面倒を見る。きちんと礼儀のある人間に変える。わかったな」
「えええええ?」
目が丸くなり、大声で叫んだ。慌てて首を横に振る。
「何で? どうしてあたしが見なきゃいけないんですか?」
「犬が好きなんだろ。世話もできるって話してたじゃないか」
「犬とオオカミは違います。世話できるっていうのも、適当に答えただけです。あたしには無理です」
しかし金森は無視し、部屋の中のオオカミ男を呼んだ。
「しつけ役が来てくれたぞ。顔を見せてやれ」
「しつけ役じゃないってばっ」
ぐっと腕を握る。金森はもう一度オオカミ男に話しかけた。
「いい加減、出てこい。そうやって一人でいたら、あの頃と同じじゃないか」
「うるせえっ」
中から低い声が聞こえた。太く力強く、ぎくりと冷や汗が流れた。本当にオオカミが威嚇し吠えているかのようだ。金森は慣れているのか、眉一つ動かさない。
「いうことを聞け。部屋の鍵を開けろ」
「先生、鍵持ってないんですか?」
「持ってるけど、勝手に開けたら襲いかかってきたんだよ。仕方なくドアは閉じたままにしてる」
「襲いかかってきた?」
がたがたと体が震える。恐怖でいっぱいの樹里を安心させるために、金森は穏やかな口調で付け足した。
「いや。別に噛みついてくるわけじゃないからな。ちょっと乱暴なだけだ」
けれど、全く安心などできない。乱暴な性格とは、具体的にどういうことなのだろう。
「やっぱり、あたし無理です。帰ります」
急いで玄関へ走ったが、ここがどこなのかわからないことに気づいた。アパートへの帰り道が不明だ。戸惑っていると、金森が後ろから声をかけてきた。
「今日は、このマンションに泊まっていけ。俺がいれば、あいつも悪いことはしないから」
「……助けてくれるんですか?」
「そりゃあ、見捨てたりはしない。お前が傷ついてるのに見て見ぬフリなんか」
「わかりました。じゃあ、よろしくお願いします……」
俯き、金森の言う通りにした。部屋に戻ると、また金森はオオカミ男を呼んだ。
「大牙。顔だけでも見せろ」
「タイガー?」
樹里の心に引っかかった。
「そのオオカミ男って、タイガーって名前なんですか?」
「そうだけど」
「でも、タイガーってトラじゃないですか? オオカミならウルフじゃ」
「タイガーじゃなくて、大牙だ」
金森はペンとメモ帳を持ってきて、何か書いた。そこには「黒瀬大牙」という文字が並んでいた。
「黒瀬大牙くん……」
「俺が付けてやった」
「先生が?」
「さっき、家族も住む場所も名前もなかったって言っただろ。初めて会った時、あいつは自分には名前がないって話してた。だから俺が考えてやったんだよ。適当にな」
「適当に……」
金森のいい加減さが、改めてわかった。やはり他人より自分が好きなんだと、はっきりと感じた。
突然、ガチャリと鍵が回る音がした。すぐに樹里も金森も音がした方へ目を動かす。そこには、金森よりも背が高く、がっしりとした男子が立っていた。
「大牙。ようやく出てきたな」
さっと血の気が引いていく。あまりの恐怖で目を逸らすと、金森に無理矢理顔を向けられた。
「なに怖がってるんだ」
「だ、だって……」
ぎゅっと目をつぶる。これは悪夢だ。幻だ。こんなに恐ろしい男のしつけをするなんて……。そんなの……。
「いやだああっ」
大声で叫ぶ。どうして、こんな目に遭わなくてはいけないのかと、信じられなかった。