第三十七話 嗤う泥
河の支流は穏やかで、馬に水を飲ませるのにちょうど良かった。
上質な織物、木綿やら絹やらで出来た黒い上着とクラバットを脱ぎ捨てる。
黒い染料は高価なため、この上着ひとつとっても庶民でないとわかった。
その男の顔は皺がより、瞼も重たそうに垂れているが、上着を全て脱ぎ捨てると奇妙に見える。
顔と身体のバランスが悪いのか、いや、加齢を感じさせない肉体に問題があるのだろうか。
男は気配に勘付くと、河の浅瀬に足を運んだ。
背を向けたまま、気配に対して声を上げる。
「遅かったなスピリドーノ。また他の奴らの尻ぬぐいか。お前も苦労するな」
返事はなかった。
その代わり、男の周りの水が突然真上に持ち上がった。
水はそのまま、男をすっぽりと包んでしまう。大きな水球が宙に浮いた。
片目を腫らしたマハーシャラが、短槍を構えたまま、姿勢を低くして藪から出てくる。
腫れた部分は血抜きをしてあるが、まだその痛々しさは残っている。しかし、捕らえた獲物を逃がすまいと、低い姿勢と構えを緩めない。
蹄の音が続いて、他の者が追いついたとわかる。
彼らの水球を見上げる目は厳しい。中にいるのが、例の家令だからだ。
そして、水に閉じ込められても男は微動だにしない。いや、呆気に取られて動けないのだろうか。
マコトはジャンに乗せられ、二人乗りでようやく一行に追いついた。
リオネルも、カークも皆、すでに馬を下りて武器を携えている。
マハーシャラは、水の中の男と見つめ合う形になっている。
家令は相当な年齢のはずだ。その上、水に閉じ込められたら呼吸ができないはずだ。
男は呆気に取られているのではない。
平然としているように見えた。
騎士の攻撃を受けているのに、だ。
皆が見つめる中、にやりと口元が歪んだ。
そしてすぐに水球の水が茶色く濁った。男の姿が見えなくなる。
マハーシャラの魔力を上回ったのか、茶色い水が四散した。捕らえていたはずの男が地面になんなく着地する。
四散した茶色い水をよく見れば、それは泥のようだった。
「バートン家の家令だな」
リオネルが話しかける。
一呼吸おいて、家令がため息をついた。
「大公殿下、どうなさいましたか」
「…言い方を変えよう。家令を殺してなりすましていた、お前は誰だ」
それでも男は、リオネルたちが会った男だ。
いや、リオネルとトマはもう何年も、この男を目にしている。領内の集まりのたびに子爵についてきた。あるいはディアメに滞在した時、家族で顔を合わせている。
そう、その顔は、家令のものに違いなかった。
「……土魔法、魔石は“ささご石”か。珍しいな。酒樽の中で土に埋められていたのが、本物のバートン家の家令かな。可哀想に、白骨化していたが」
「左様でございますか」
そう言うと、男は大きく伸びをした。
すると、べちゃり、と身体から何か落ちた。左右に身体を伸ばす。両腕を振ってみせる。
それは呑気に体操でもしているかに見えたが、男の足元には茶色い泥が溜まっていく。
そうして身体は徐々に、本来の姿へ変わっていく。
「あーあ、終わりかあ」
男は首を回してそう言った。
男の顔が重力に従ってたるんでいく。それは勝手に皮膚が溶けていくかのようだった。
男の顔の目元、口元が溶けていく。皮膚は歪み、歪みはそのまま重力に従っていく。
べちゃり、顔から泥が落ちた。ぼた、ぼたと続いて泥が落ちるその姿に、誰もが息をとめた。
背中を百足が這うが如く、背筋が戦慄いた。
泥の下から、別の男の顔が出てきたのだ。
ごくり、とマコトは生唾を呑んだ。
今まで見てきた魔法は、どれも華麗で綺麗なものが多かった。でもこれは、禍々しいとさえ思う。どこか狂気じみている。
魔法を見慣れないマコトがそう思うのだから、この世界の、魔法に慣れている連中はどれほどだろう。
リオネルだけは涼しい顔をして、レイピアに似た細い刀身を男に向けたままだ。
「会えて嬉しいな。名前を教えてくれないか」
「……そうかい」
男は、先ほどの家令とは全くの別人だった。別の顔、別の声色で体型も違う。
のっそりした、という印象を受けるのは、身体に比べて、顔が細面だからだろう。
身体はよく言って中肉中背。悪くいえば中年の突き出た腹と、ふくよかな腕周り。
筋肉質な騎士たちとは似ても似つかない。その中で顔だけが細く、太い眉毛が印象的だ。
「嬉しいだろうねえ、そりゃあ。あんたはおれまで辿り着いたと思ってる」
王国精鋭の騎士に囲まれても、男は泰然としている。
「殺して悪かったなあ。そう言ってほしいんだろう、大公さんよ」
リオネルの剣先がピクリと動いた。
マコトが思わず前のめりになるのを、トマが腕で制している。
「学者崩れが、殿下に向かって大それた口をきく」
トマの片眼鏡が光った。
「オグライゼン、ガーシュインのどちらかだ。どちらで呼んで欲しい。さっさと言え!」
トマの声は空気を裂くようだった。トマは、一族に調べさせた学者崩れのリストの中から、土魔法の使い手を思い出しただけだ。
条件に一致したのは二人だった。
その名前に、男の太い眉毛がぴくりと動いた。
「ガーシュインだと? あれと同じにされては堪らんな」
男はまだにたにたと笑っている。
一方で、トマの感情はどんどんと昂っていくようだ。
「ホセ・オグライゼン。十八年前に王都の大学を中退した半端者か」
「黙れ!」
男の目が開き切っている。叫んだその後も、歯茎まで見えるほど口を剥いて笑った。
「おめでとう! おめでとう大公さん! おれに辿り着いた! おれを殺せる! おめでとう!」
なんだこいつは。
男は子どものように大声で叫んだ。リズムまで刻んで、どこか嬉しそうにしている。
マコトは直視できないものを見ている気がした。男の周りだけ、空気が歪んで陽炎のように揺れている気がする。
自分の目がおかしくなったのだろうか。それともこいつがおかしいのか。
「そこにいるのは転移者だな。お前も、おめでとう。ようこそこちらへ!」
マコトは急に話しかけられてたじろいだ。狂気が自分に向けられたと、咄嗟に思った。
「……マコト様、あんな奴が、この世界の人間だと思わないでください」
「記憶はどうだ! 間抜けめ!」
トマと男の声が被った。マコトは、目の前が真っ暗になった。