表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
94/143

第三十七話 嗤う泥




 河の支流は穏やかで、馬に水を飲ませるのにちょうど良かった。

上質な織物、木綿やら絹やらで出来た黒い上着とクラバットを脱ぎ捨てる。

黒い染料は高価なため、この上着ひとつとっても庶民でないとわかった。



その男の顔は皺がより、瞼も重たそうに垂れているが、上着を全て脱ぎ捨てると奇妙に見える。

顔と身体のバランスが悪いのか、いや、加齢を感じさせない肉体に問題があるのだろうか。



 男は気配に勘付くと、河の浅瀬に足を運んだ。

背を向けたまま、気配に対して声を上げる。



「遅かったなスピリドーノ。また他の奴らの尻ぬぐいか。お前も苦労するな」



 返事はなかった。

その代わり、男の周りの水が突然真上に持ち上がった。

水はそのまま、男をすっぽりと包んでしまう。大きな水球が宙に浮いた。


 片目を腫らしたマハーシャラが、短槍を構えたまま、姿勢を低くして藪から出てくる。

腫れた部分は血抜きをしてあるが、まだその痛々しさは残っている。しかし、捕らえた獲物を逃がすまいと、低い姿勢と構えを緩めない。


 蹄の音が続いて、他の者が追いついたとわかる。

彼らの水球を見上げる目は厳しい。中にいるのが、例の家令だからだ。


 そして、水に閉じ込められても男は微動だにしない。いや、呆気に取られて動けないのだろうか。


マコトはジャンに乗せられ、二人乗りでようやく一行に追いついた。

 リオネルも、カークも皆、すでに馬を下りて武器を携えている。


マハーシャラは、水の中の男と見つめ合う形になっている。

家令は相当な年齢のはずだ。その上、水に閉じ込められたら呼吸ができないはずだ。

男は呆気に取られているのではない。

平然としているように見えた。

騎士の攻撃を受けているのに、だ。


皆が見つめる中、にやりと口元が歪んだ。


 そしてすぐに水球の水が茶色く濁った。男の姿が見えなくなる。

マハーシャラの魔力を上回ったのか、茶色い水が四散した。捕らえていたはずの男が地面になんなく着地する。

 四散した茶色い水をよく見れば、それは泥のようだった。



「バートン家の家令だな」


 リオネルが話しかける。

一呼吸おいて、家令がため息をついた。


「大公殿下、どうなさいましたか」

「…言い方を変えよう。家令を殺してなりすましていた、お前は誰だ」


 それでも男は、リオネルたちが会った男だ。

いや、リオネルとトマはもう何年も、この男を目にしている。領内の集まりのたびに子爵についてきた。あるいはディアメに滞在した時、家族で顔を合わせている。


 そう、その顔は、家令のものに違いなかった。


「……土魔法、魔石は“ささご石”か。珍しいな。酒樽の中で土に埋められていたのが、本物のバートン家の家令かな。可哀想に、白骨化していたが」

「左様でございますか」


 そう言うと、男は大きく伸びをした。

すると、べちゃり、と身体から何か落ちた。左右に身体を伸ばす。両腕を振ってみせる。

それは呑気に体操でもしているかに見えたが、男の足元には茶色い泥が溜まっていく。

そうして身体は徐々に、本来の姿へ変わっていく。


「あーあ、終わりかあ」


 男は首を回してそう言った。

男の顔が重力に従ってたるんでいく。それは勝手に皮膚が溶けていくかのようだった。


男の顔の目元、口元が溶けていく。皮膚は歪み、歪みはそのまま重力に従っていく。

べちゃり、顔から泥が落ちた。ぼた、ぼたと続いて泥が落ちるその姿に、誰もが息をとめた。

背中を百足が這うが如く、背筋が戦慄いた。



泥の下から、別の男の顔が出てきたのだ。


 ごくり、とマコトは生唾を呑んだ。

今まで見てきた魔法は、どれも華麗で綺麗なものが多かった。でもこれは、禍々しいとさえ思う。どこか狂気じみている。

魔法を見慣れないマコトがそう思うのだから、この世界の、魔法に慣れている連中はどれほどだろう。


 リオネルだけは涼しい顔をして、レイピアに似た細い刀身を男に向けたままだ。


「会えて嬉しいな。名前を教えてくれないか」

「……そうかい」


男は、先ほどの家令とは全くの別人だった。別の顔、別の声色で体型も違う。


 のっそりした、という印象を受けるのは、身体に比べて、顔が細面だからだろう。

身体はよく言って中肉中背。悪くいえば中年の突き出た腹と、ふくよかな腕周り。

筋肉質な騎士たちとは似ても似つかない。その中で顔だけが細く、太い眉毛が印象的だ。



「嬉しいだろうねえ、そりゃあ。あんたはおれまで辿り着いたと思ってる」


 王国精鋭の騎士に囲まれても、男は泰然としている。


「殺して悪かったなあ。そう言ってほしいんだろう、大公さんよ」


 リオネルの剣先がピクリと動いた。

マコトが思わず前のめりになるのを、トマが腕で制している。



「学者崩れが、殿下に向かって大それた口をきく」


 トマの片眼鏡が光った。


「オグライゼン、ガーシュインのどちらかだ。どちらで呼んで欲しい。さっさと言え!」



 トマの声は空気を裂くようだった。トマは、一族に調べさせた学者崩れのリストの中から、土魔法の使い手を思い出しただけだ。

 条件に一致したのは二人だった。

その名前に、男の太い眉毛がぴくりと動いた。



「ガーシュインだと? あれと同じにされては堪らんな」


 男はまだにたにたと笑っている。

一方で、トマの感情はどんどんと昂っていくようだ。


「ホセ・オグライゼン。十八年前に王都の大学を中退した半端者か」

「黙れ!」



 男の目が開き切っている。叫んだその後も、歯茎まで見えるほど口を剥いて笑った。


「おめでとう! おめでとう大公さん! おれに辿り着いた! おれを殺せる! おめでとう!」


 なんだこいつは。

 男は子どものように大声で叫んだ。リズムまで刻んで、どこか嬉しそうにしている。

マコトは直視できないものを見ている気がした。男の周りだけ、空気が歪んで陽炎のように揺れている気がする。

 自分の目がおかしくなったのだろうか。それともこいつがおかしいのか。



「そこにいるのは転移者だな。お前も、おめでとう。ようこそこちらへ!」


 マコトは急に話しかけられてたじろいだ。狂気が自分に向けられたと、咄嗟に思った。



「……マコト様、あんな奴が、この世界の人間だと思わないでください」

「記憶はどうだ! 間抜けめ!」


 トマと男の声が被った。マコトは、目の前が真っ暗になった。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ