第三十三話 繋ぎ目
富が欲しい、なんて馬鹿げている。
欲しいものは、叶うのならば失った家族だ。小さかったマイロの手は、小さいまま温度を失った。あの小さな手を握って、太陽の下で笑いながら水遊びをした。泥だらけになったのを、夫のイディアンが笑ってる。
リオネルの頭には油が煮えたような熱が巡っていた。
あえて民衆の前に立ち、成り行きをマコトに任せたけれど、覚悟はしていたけれど、頭の熱とは真逆に手先が冷え、胸のあたりにつかえを覚えた。
情けないが、きっと僕の声は届かないのだろう。こんな感覚を自分の民に持ちたくなかった。
マコトはよくやってくれている。けれどこの虚しさは、諦めていた何かか、見過ごしていた何かか。
リオネルは寒くもないのに冷えた己の手を見た。かさついて、あまり綺麗だとは言えない。貴族の手とは思えなかった。
その視界を何かが遮った。
見上げると、先ほど前に進み出た老人だった。
リオネルを知っている、リオネルの母親を知っている。この街の古い顔役だ。
彼がリオネルのかさついた手を握った。骨ばった細い手は予想外に力強く、熱をもってリオネルの手を握っている。
「……失ったものばかり、ちらつきますな」
髪は薄くなり、皺とシミの多い顔で、痩せてしまってすぐにはわからなかった。けれどこの声は、はっきりと記憶を呼び覚ました。
「……ニコ、ニコ爺か……」
リオネルが名前を呼ぶと、皺の多い、細くなった目元から涙が流れた。涙を流しながら、口角を上げてリオネルに微笑む。
「ごめん、ニコ……守れなかった」
すんなりと言葉が出てきた。
ずっと誰かに、謝りたかった。ずっと謝ってきたけれど、それは死者しか聞いていなかった。
胸のつかえは、これだったのかもしれない。痛みが少し、流れ出ていくようだった。
「守れなかった」
もう一度、はっきりと言う。
そうして、ごめん、と続けた。その先は続かなかった。
嗚咽が邪魔をした。張り裂ける痛みが邪魔をした。視界を涙が邪魔をした。
男がひとり、群衆の輪の中から抜けて出てきた。
少年が出てきて、リオネルに歩み寄った。また別の男が近寄った。
そうして、いつしか何人もの男たちが、大公と老人の傍に膝をついて彼らの身体を撫でた。
その掌から、哀しみが移っていくのだろうか。
大公に触れない人は、触っている人の背中に手を置いた。遠くから見守る者は、隣にいる人と手を繋いだ。
ある者は泣き、ある者はまだ信じていないのだろう、目を背けた。
それでも、ここで何かが起きたのは確かだった。
近衛騎士、マハーシャラは瞬きを忘れてその光景を見た。
腹心の男、スーレン一族のトマは安堵した。
神子と呼ばれる異世界からやってきたマコトは、目を閉じてその場から動かない。
姉貴、あんたおれを見ているか。
心の中で語りかける。自然と顔が天を向いた。二つの太陽が昇る世界でマコトは、セーラー服を着た勝気な姉を想った。
光が、彼を包んでいく。
この世界の太陽は二つもあるのに、柔らかく人の肌にあたる。深呼吸すれば、その光が身体の中に入ってきて、全身を温めてくれるようだった。
こんな明るい場所で、姉を思った事があっただろうか。
あちらで、日本でおれはどうやって姉と向き合っていたのだろう。
あの時、マコトは子どもだった。小さかった彼の言い分は、大人たちにすげなく流された。
それがいつまでも消えなかった。だから言えなかったと弱い自分を見つけ出す。
そう、リオネルが街の人と手を取り、謝罪を口にした。それは羨ましくもあり、自分が本当に望んでいた事かもしれないと思った。
姉貴、ユキ姉。
遅くなってごめんな。
ユキ姉、おれの声は届かなかった、ごめん。
あの時、すぐ見つけてあげられなくて、ごめん。
あの後、親父たちと口をきかなくなった、ごめん。
そうしたらやっと歯を見せて、思い出の家族が自分に笑いかけた気がした。
あたたかな光の中に、姉がいるような、そんな気持ちになった。
異世界の街の広場で、マコトは空を仰ぐ。瞼に溜まった涙が、こぼれ落ちないように。
※
ジャンはその光景に見惚れて佇んでいたが、いきなり脇をグッと押されて振り返った。
マクナハンとカークだ。後ろから怖い顔をした元帥が見下ろしてくる。
「ジャン殿、我々は子爵を」
マクナハンが手短に言うと、ジャンは顔色を変えて馬を取りに行った。それだけで意図が伝わったのだ。
広場から急いで出ていく近衛騎士を見て、ホルスト元帥は大きな息をついた。
「全く、修行が足らん」
関税の話が出た瞬間に彼らは動くべきだった。それを呑気に自分も観衆になっているようでは、一人前の近衛とは言えない。
近衛は王侯貴族の身辺を守るのが使命だ。命を賭ける、その為にどんな些細な事にでも気付き、いち早く反応して動くべきである。
「貴様らも何をしている! 愚図愚図するな! 子爵邸を押さえろ!」
元帥の怒号を間近で聞いた部下たちは、すぐさまジャンたちに続いた。
その声に呼応してか、大公にも動きがあった。周りの人々と何かを小声で話し、すぐこちらに向かってきた。
「…あの、悪い、元帥」
「そういう時は助かった、ありがとうって言えよ」
後ろからついてきた神子様が、少し鼻声になりながらリオネル大公の脇腹をつついた。
その様子に、神は本当におられると、元帥は祝福したい心持ちになった。
「いいえ殿下。先代国王陛下に叱られます。話は後にして、バートン子爵を押さえましょう」
炎の髪と、浅葱裏のマントが風に靡いた。
まだだ、と元帥は腹の内に強く思った。まだ負けてはいない。
元帥の横顔と浅葱裏のマントが翻るその光景に、巻き毛の大公は頷く。
大公領での不正の発覚は、足元を掬ったつもりであろう敵の輪郭を捉えたのだ。
リオネルの水色の瞳が、まっすぐ光を放った。




