第二十九話 英雄と象
その生き物は長い鼻を伸ばして、花屋の軒先の花をそのまま巻き取り、口に入れてしまった。
大きな耳をはたはたと動かして、熱を冷ましている。優しげな眼と、頭の赤い飾りがこちらを向いた。上野の動物園で見た象より、やはり大きい。
「え、ぞ、象?!」
先ほどの音は、あの象の鳴き声だったのか。象ってパオーンって鳴くんじゃないのか。
マコトは目を白黒させながら、近づいてくる象を見た。
背中に人が乗っている。ここはサバンナでもインドでも、ましてやサーカス小屋でもない。
そして近づいてくる、いや人だかりが海を割ったように、さーっと両側に引いていった。
「まさかそんな」
「嘘だろ」
ジャンとカーク・ハイムがそう言って、互いに顔を合わせた。
「やっと来てくれたか」
「待ちわびた甲斐あって、良いタイミングですね」
「え、知ってる人? なあジャン」
そう言って振り返ったが、ジャンとカークは、俯いて震えている。がちゃがちゃと音を立て、武器まで震えあがっているらしい。
「なんでお前ら、内股になるの」
「ここおこここ怖いんですよ!」
「ま、まままままマコト様はご存知ないでしょうがあの方は」
このアメフト選手みたいに体格のいい二人が怖がるなんて、どういう事だろう。象が怖いのか、それとも魔王でも来るのかな。
「おお! 遅くなりました殿下!」
怒声かと思うほどの低く、通る声がした。岩が揺れるならこんな声で揺れるんだろう。
こういう声は日本ではちょっと聞かない。ヘヴィメタバンドのボーカル、いや、この時代ならきっとバイキングだ。北欧の海を支配した、狂暴そうなバイキング。見た目もそれに近いんだろうなとマコトは思った。
ようやく、象の歩みが広場に辿り着く。
「遅いといっても、その一歩は大きいだろう」
リオネルが笑いかけた。
象の上で、マントが風に揺れる。濃紺の表、浅葱の裏地。今は略式で右肩に引っ掛けている。
その天鵝絨のマントをつけられるのはこの国に三人のみである。それは風が靡くたびに、裏地の浅葱色がチラチラと見え隠れし、周囲の人だかりからため息が漏れた。人々のざわめきは決して悪い意味ではなさそうだ。
リオネルが笑いかけた人間は、燃える炎をそのまま模ったような癖のある赤い髪、もみあげと髭は程よく伸ばして繋がっていた。体躯は二メートルを有に超えるのではないだろうか。
「……象に乗ったバイキングじゃん」
ヒグマ、いやグリズリーとゴリラを足しっぱなしにした大男。出で立ちが騎士たちと同じでなければ、マコトはすぐに逃げ出すところだ。
見知らぬ土地でこんなのに出くわしたら、考える間もなく逃げるべきだ。
「おれが長いこと馬に乗ると、馬の脚に良くないのでな。犀にも乗るが、あれは気性が荒くて街中には向かん」
騎士が乗る軍馬には、はじめ驚かされたものだ。ジャンが操る時はそうでもないが、近づくにつれて遠近感がわからなくなったほどだ。軍馬は北海道のばんえい馬のごとく、いやその二回りほど大きい。それでも彼の体躯を支えきれないという。
あのバイキングの体重は見るからに重そうだ。軽く百キロを超えるだろうし、その全てが筋肉といわんばかりにどこもかしこも大きい。太ももなんてマコトの胴体ほど、いやそれ以上かもしれない。あの首の太さはなんだろう、勝てる気なんて一ミリも起きない。
オリンピックに出るならハンマー投げ選手だな。そこでやっぱりバイキングって言われるに違いない。
「ていうか今、犀って言った? 乗るの? あれ乗り物じゃないよな? 普通、人間は乗らないっていうか乗れないんじゃないか?」
「安心していいよマコト。こちらの世界でも彼は規格外だから」
良かった。それは良かった。頭の中がこんがらがって大変だ。異世界がいつもこうだとしたら、おれはとっくにノイローゼになっている。SFがどうのこうのでは済まない。ノストラダムスすら想像できない未来ってあるんだな。ノストラダムス、お前は地球に居られて良かったよ。
「ホルスト元帥、助かるよ」
「申し訳ない。うちのが上手くやってるといいと思いましたが、何やら鍛え甲斐のありそうで」
象の耳を撫で、長い鼻を使って器用に下りてきた。その動作は豪快というより繊細だった。
だがやはり、大きい。マコトの倍はありそうだ。見上げると首が痛い。
「おれの世界じゃ遠近法っていうのがあるんだけど、画家泣かせの人だな」
「彼はとても頼りになるんだ。マコト、会ってない?」
リオネルに聞かれると、首を振った。
「まっさか! おれだってこんな強烈なおっさん会ったら忘れな……あ……」
いた! いたぞあの時!
そうだ、マコトはこの人に見覚えがある。あの時、一度だけ離宮を飛び出して近衛隊舎の方に行った。そこで火と水の魔法合戦を見た、そのそばにいたではないか。
リオネルと何かを話す、グリズリーとゴリラを足しっぱなしにした大男を。
あの時は威厳に満ちてかっこいい人だと遠巻きに思った。
そう、遠かったから良かったのだ。近くで見たら遠近感がこじれる人だ。
象だって、この人が下りてからの方が、さっきより大きく見える。おかしい。あれは象というよりマンモスじゃないかな。そのマンモスのような巨象は、腹が減ったのか街路樹の葉をむしっている。
巨象に巨人。やっぱりこちらの世界はSFだったのかもしれない。
「さて、何やら面白いことになってますな」
火の玉を頭部に貼り付けたような赤髪で、赤い髭をぞりぞり指でなぞって周囲を見渡す。
「そこにいるのは、我が近衛の精鋭に見えますが」
岩を割りそうな声に、ビクッと騎士たちの肩が揺れた。
まさか、この人ってジャンたちの上司になるのか?
「その上、そこの衛兵に捕らえられているのはマハーシャラ・テムズで間違いないか? うん? 騎士マクナハン、どうだ」
「はっ! 元帥閣下のおっしゃる通りであります!」
おれが聞いたことのない、マクナハンの大きな声。彼は震えてこそいないが、最敬礼をとっている。
「ほお……なるほど」
にたりと白い歯を見せて笑った。綺麗な歯並びがどうしてか迫力を増大させている。
凶悪なバイキングが、獲物を見つけたらしい。
もう一回言っておく。
異世界でこんな奴に会ったら、一目散に逃げだすべきだ。




