第十七話 界雷
窓の外は雨だった。濃い雲が幾層ものしかかるように空を狭めて、身長が縮んで、首がすくんでしまうようだ。
マコトはその日、誰とも口を利かずに過ごした。
目覚めて朝一番にリオネルを探してもいない。アスクードもトマもいない。
聞きたい事はたくさんあった。同時に、いつも自分から聞くしかない、とこれまでの事を思い出していた。
いつもそうだった。
何もかも、元いた世界とは違う。だが、何が違うのか、その場に立ち会わなければわからない。知らない世界に放りだされるということは、こういう事なのか。
ノストラダムス、お前のいう通り、世界は終わった。おれの知っている世界が、おれの中で終わった。
何回同じことを繰り返せば気が済むのだろう。
ここを抜け出したらどうか。
その時は一人で生きていけるのか。水や食糧はどうやって手に入れる。まずこちらの金はどうか、物価はどうなっているのか。
マコトは何も知らなかった。
でも、ジャンやピッケも何も言ってはくれなかった。成人の儀のこと、そのことすら知らされていなかった。
信じていた。
そう口にしそうで、口にしたら途端に自分が弱くなりそうで、マコトは押し黙った。
身体に痛みや不調はない。確かにルネの言う通り、中毒性はないのかもしれない。こちらの人間には当たり前の行為かもしれない。
そんなことで傷つくのか。
そう言われてしまえばお終いだ。そう思われていたら、立つ瀬がない。
マコトは剣呑に、黒い瞳を光らせながら押し黙って過ごした。
夜、ルネが来る。話はそれからだ。
※
神子様は昨晩とは違い、こちらを少し警戒している。
いや、それにしてはやけにまっすぐ、こっちを見ている。なんとなく居心地が悪かった。
ルネはすぐ目を逸らして支度にかかる。
成人の儀を嫌がっていた。とうに成人を済ませているだろうに、慌てて、困っていた。
ルネはわかっていた。
だから先に口を塞いでしまった。何か言われて、心が乱されないようにする必要があった。
神子様は、ベッドに腰かけてまっすぐにおれを見てくる。
見慣れない黒い目は、何を考えているかわからない。おれに怒っているのか、それとは少し違う気がする。
沈黙を先に破ったのはルネだった。
「み、神子様」
「マコトだ」
神子様の顔色は変わらない。ただ、威厳を感じた。
揺るぎないものが、彼の鋭利な横顔から覗く。こんな雰囲気ではなかった。初めてお見掛けした時も、晩餐でも、昨晩も、こうではなかった。
ルネの奥底に、人知れず畏怖が芽生える。それは、彼が抱いたことのない類の感情だった。
墨を流したかのような艶めいた髪、象牙色の肌、黒い瞳。伝承に聞く、異世界から来られた神子様。白い病を治して世界を正す方。
「ルネ、どうしたんだ。震えているぞ」
かちゃかちゃ、そう言われて見れば手元の瓶が揺れている。手が震えていた。
押さえようとしても、震えは止まらない。
神子様、神子様、おれは何をしているのか、わかっています。でも神子様。
「み……マコト、様」
自然と頭を下げていた。金の髪が垂れる。
ごくり、とルネは唾を呑み込んだ。言えないことが多すぎる。何かを漏らしてボロが出ては元も子もない。
ごくり、と生唾を呑んだ。
「ルネ、お前はおれが成人の儀をやらないと困るんだろう?」
汗ばんだ背中を感じながら、ルネはゆっくり頭を上げた。神子様は顔色ひとつ変えない。
「お、お仕事として、いただきましたから……」
出来ないでは済まされない。ここまで来たんだ。
「じゃあ、おれに話せるよな」
「何を……」
「アスクード伯に、おれが抱かれるってなんだ?」
「……そう聞いただけです。その為に準備しないといけないからと」
「成人の儀ってなんだ、なんでお前が指名されたんだ」
ルネは大きく息を吐いた。息をとめてしまう、そう思ったからだ。
「成人の儀は、誰もがします。国や地方によって多少違いはあると思いますが…受け入れる側の経験をしないことには、大人にはなれません。魔力の交換もできませんから」
「蜜飴も普通か?」
「……怖がる者もいますから、割と使います」
神子様の、切れ長の瞳は哀愁と独特の色香があった。でも、自分とは違う。媚びることを知らない人だ。その必要がない。
昨晩も、媚態に惑わされるということはなかった。
しかし、綺麗なものを、美しいものを歪めたような、そんな気がした。
その時ふと、ルネの耳に強くなった雨音が木霊する。ごうごうという音。暗くなってから風が出てきたからだろうか。
「ほ、本当です。痛みが和らぐので、薬師もよく使うと聞きます」
「お前が選ばれた理由は? みんなやってるなら、お前じゃなくてもいいだろう」
侍従のことを指しているのだろうか、そうかもしれない。
「私はコールボーイです。お分かりでしょう?」
そう言うと、マコト様は目を開いた。
「店の子にも同じように仕込みます。年長なので、そういう役回りが多くて。それは大公様はご存知ないでしょうけど、私がどんなことをしているか、すぐにわかったはずです」
「店の子にもあんな風に無理矢理するのか」
「そんな!」
ドドン!
直後、雷が落ちた。一瞬、雷の光に照らされたルネ。
彼は両手で、思わず口を押えていた。




