プロローグ
男は荷物を慌ててまとめている。だが先ほどから、服を突っ込んだかと思えば、ひっくり返して探し物を始め、書き込みの多い本を見つけると親指の爪を齧りながら読みふける。
そういった事の繰り返しで、荷造りと呼べるものではなかった。
くすんだ暗い茶色の髪が、ざっと後ろに反りかえる。ブラシを通さず、風呂にも入っていないのか、男の首の動きに合わせて動くが、髪は好き勝手な方向へとっ散らかるのだ。
窓から差し込む光は日光から月明りに変わった。
だというのに、男は飲まず食わず、本に新しい書き付けをすると、満足して一瞬幸福そうな顔をする。そうしてまた、荷物をまとめようと、手当たり次第、鞄に詰め込む。
こんこん、と音がした。
その音が何度続いても男は返事をしない。荷物に夢中だった。泥遊びをする子どもさながら、必要があるのか、毛布まで詰め込もうと躍起になっていた。
「なんだ。まだいるじゃないか」
ドアに鍵はかかっていなかった。
ノックをしていた人物は、勝手知ったる何とやらで入室し、物が散乱して埃っぽい部屋をぐるりと見渡した。
「ガーシュイン、何をしている」
眉をひそめて、その男が汚物であるかのように言った。唾でも吐き掛けでやりたい、そこまで思ったかもしれない。
ガーシュイン、と呼んだ男を、嫌っているのではない。
彼の精神状態を疎ましく感じているらしい。
「ガーシュイン」
力強く呼ばれて、茶色い髪の男はゆっくりと振り返った。
髪と同じ茶色い瞳は、寝ぼけている。
「は、はい」
「……アザミ卿がお待ちだ。来い」
その名前を聞いた途端、ガーシュインの瞳が、こぼれるほどに開かれる。血走った目、そして次の瞬間は引きつれた叫び声だった。
「けけけ結構です! もう結構です!」
それだけは聞き取れたが、入ってきた男は舌打ちして、喚くガーシュインの腕を乱暴に取った。
「お前らは呼ばれたら来ればいいんだ」
「ももう、もう、ああああ!」
騒がれて嬉しいはずはなかった。窓から差し込んだ月明かりが、その男の目に映りこむ。
ダン!
力任せにガーシュインの足を踏みつけ、さらに靴の底から相手の骨が軋むのがわかるほどねじった。
ガーシュインの声なき叫びが喉を通り抜ける。
「散々良い思いをしただろう……なあ学者さんよ」
男は、自分が踏んだ足の下で、ガーシュインの足の骨が折れる音を愉しんだ。
ガーシュインはのけぞって、倒れ込もうとするも、男の腕が許さない。
「褒美があるとよ。なんだ…気絶しちまったら、もらえる褒美ももらえねえなあ」
男は黄色い歯を見せて、にたにた笑う。ガーシュインの骨ばった身体を担ぎ上げ、これから何が始まるか、楽しみでならなかった。




