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第四話 空の音色

第四話 空の音色



 子どもの笑い声、朗らかなあの人。鼻歌とお茶。

マイル、そんなに走ったら転ぶよ。ああほら転んだ。大丈夫。草の大地がやさしく君を受けとめただろう。地面はあたたかだよ。大丈夫、ほらもう、泣き止んでごらん。


――殿下、大公殿下。


「…トマ」

「殿下、具合でも?」

「いや、いいよ」


 大きなソファからゆっくり身体を起こして、血よりも濃い、腹心の声に耳を傾けた。

幸福な時はいつだってささやかだ。




  *



 幼心にトマ・スーレンは、自ら仕えるべき人間を選びたいと思っていた。もちろん、選べるわけではない。けれども、尊敬できるか、付いていきたいと思うか。

果たして目の前のこの人は、私の理想に足るか否か―――

 私が殿下に仕えたのは八歳からだ。それより前から遊び相手として時々後宮を訪れていたが、いよいよ正式に臣下となり、侍従として一生を捧げると決まった。リオネル殿下は王族第三子であるが、大変栄誉なことだと皆で祝ってくれた。

 身体に巻き付けるような着物は一族の誇りだった。耳から下の髪の毛は全て剃り落とすという成人のしきたり、伸びた髪はそれぞれ垂らすか結ぶかだが、頭髪に関する古くからの習俗である。この外見で、すぐに北方に由来ある一族とわかる。古風かつ歴史を重んじる一族が、その姿を変えず、このジアンイットで暮らしていくのはどれほどの苦労があったことだろう。


私より二つ上のリオネル殿下は当時から器用な方で、要領や物覚えが良かった。

体術など荒っぽいことは好まれず、繊細で優美。晴れ着で飾り立てる甲斐性があって侍従としてなんと誇らしかったことか。衣装選びから小物選び、繊細な意匠の工芸品を探してみるのも楽しかった。そして夜になれば金の巻き毛に香油で撫でつけ、たくさんの悪事にお供した。

一方で、兄君たちを敬っていながらも、末子ゆえか奔放で、いささか謙虚さに欠けると陰口を叩かれることは多かったが、当の本人はお構いなし。

殿下には不思議な魅力があった。人を惹きつける華やかさ、上品に弾む会話術、洗練された身のこなしや所作などとにかく人の心のどこかをくすぐるような人で、身分も彼の才能を後押しするかのようだった。

そんな風に十数年、この方を見て、共に生きて、あの事件が起こった。

あの悲惨な、陰惨な事件。あれから殿下は表面的には平静を装っていたが、お変わりになられた。

あの日からすべて変わった。



「使い物になりそうか?」

「…今はまだ、なんとも」

「そうだよな、済まない。気が急く」



 焦る気持ちは当然だった。今大きな分岐点にいるのだ。


「転移魔法陣の仕掛けが手掛かりになるでしょうか」

「その一つだ。手札が一つ増えたことを向こうも気づいている。だから、マコトの『神子』としての仕事が進まなければ意味がない」


 水色の瞳に冷酷な炎を宿して、口元に手をあてて考え込む。ダークグレーの袖のない詰襟は首元から下まで丸ボタンがつけられ、この国の王侯貴族ならここにクラバットやスカーフを巻く。

だが近年彼は正式な場でも、それを控えるようになった。同色で揃えた上着やマントを羽織るだけ。貴族や侍従に服装を尋ねられると年齢を理由に誤魔化す。

 ただ、私は知っている。この連なるボタンはすべて、彼の心を閉ざす鍵のようなものだ。

ひとつひとつ、丁寧に閉ざした。誰にも悟られぬように。そう、目の前の、この私にも。

無二の信頼はある。けれども、心は別だ。心の深淵まではわからない。

覗いてもいけない、不可侵の聖域だ。




「やはり周りくどいのは向いていないな。サイゼルから報告が上がったら強引な一手に出てみたい。急がせろ」

「マコト様のお体は」

「お前がそういうとは笑えるな。彼は成人だと言った、自分でいうならそうなのだろう」


 返事ができずにいると、殿下は怪訝な顔をした。


「…未成年に見えて良心が痛むか」

「いえ……」

「いや、お前はそうであってくれ」


そうであってくれ、か。

冷徹、冷淡な判断を下すのは自分の役目だったような気がする。だがそれは、数年前までだ。今は逆転してしまったのだろうか。明言されたわけではない。ただ、この方がその道を行くのは危うい気がしてならない。非情に徹しきる、血に濡れた道を。



「どのみち兄上にも急かされている。白い病が王族直轄領でも見つかった」

「なんと」

「大公領、うちから連絡があったよ」


 とっくの昔に腹は括ったはずだ。何が起きてもこの方についていくと、忠誠を誓った。それに違うことは自分自身が一番許せない。しっかりしろ、と奥歯を食い占める。

 信じるとはなんだろう、とふと我が身の弱さが頭をもたげる。その恐ろしい深淵を闇に突き落とし、共に血に塗れてみせようと叱咤する。

 何があろうとこの方に捧げた命一つだ。瞼の裏には幼かったリオネル殿下の顔がよみがえる。その懐かしい、愛しい想い出が、心を震わせる。その心の震えを、殿下に知られたくない。

 そうしてゆっくりと、慇懃に一礼した。




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