第四十四話 茨の王のために
四十四話 荊の王のために
眠れなくて寝返りをうつと、竪琴のような美しい音色がささやかに聞こえてきた。
初めてこの目で、白い病に冒された村を見て、頭が興奮しているのか落ち着かない。何か熱をもったように、ぐるぐると考え事がめぐる。
この音色は、同じ馬車の中、マコトの爪弾いてるものだろう。他に楽器を扱えるものはいないから。
彼の音は静かで、無理も無駄もない。緊張とは無縁の心地よいものだった。
ざわついていた湖面が穏やかになるように、少し胸のあたりが楽になった気さえする。
「……マコト、良ければこっちで弾いてくれないか」
マコトの演奏には魔力が、いやその音色そのものが魔法で、特別な力なのではないだろうか。
それが僕の勘違いでないとしたら、マコトは王宮を出て着々と、転移者としての才を目覚めさせている。記憶が奪われても、たくましく、頼もしいことだ。
衣擦れの音がした。
マコトは夜着が少しはだけおり、象牙のような色の肌が覗いた。少し伸びた黒髪をかきあげて、小さな琴と、リュートに似た楽器を持ち上げた。
「……大したものは弾けないよ」
「そんなことはない。とても楽になったよ、ありがとう」
ベッドの半分を譲ると、少し考えこんだが、マコトはベッドに上がって胡坐をかいた。
琴で同じ音階を繰り返しているみたいだ。なのにずっと聞いていられる。不思議だ。
半分起き上がって、ベッドランプに照らされた彼を見る。
影は濃く、彼の表情をいつもより大人びた、憂いのあるものに変えた。
悲しんでいるのだろうか。
その表情に見惚れたというのは、さすがにまずいかな。
でも、そんなに悲しいのか。
こちらの世界の事情なんて、マコトには、はっきりいえばどうでもいいだろう。
気にすることはない。
勝手に連れて来られて、記憶を奪われて、同情する必要はないと思う。
リオネルの中に、相反する気持ちがあることがわかった。
本当なら、マコトにはいてもらわないと困る。
転移者として、白い村をなんとかしてもらいたい。そうして、記憶を奪った奴を辿って突き止めるために働いてもらいたい。
そうでなければならない。六年待ち続けた、またとないチャンスだ。マコトの存在は、自分が復讐を遂げるためには欠かせない大きなピースのはずだ。
けれども彼が、こうして琴を爪弾く姿を見ていると、もういいよと言いたくなる。
もう、この国のことで悲しむことはない。どこか遠くで、森の民に守られて暮らすのがいい。
そう思ってしまう。
マコトは竪琴をやめて、別の楽器に持ち替えて、撥で弦をはじいた。
時折目をつむり、音を探しているかのようだ。曲ではなく、一音一音、確かめる作業なのかもしれない。その姿がなぜか神々しいと思うのは、自分が気弱になっているからか。
マコトの、転移者としての力に、期待しているのか。
リオネルの胸中は、これまで考えもしなかったあらゆる感情で乱れていく。
おさまったはずの、心の湖面にまた波が立つのだ。
「……綺麗だなあ……」
声に出していたのか、マコトがふっと笑った。切れ長の目尻が下がって、なんともいえない美しさだ。これに見惚れないなんて嘘だろう。
「良い音色だな」
「そう…じゃないよ」
リオネルは、乱れた何かをそのままマコトにぶつけた。
いつもなら、こんな時はおどけたはずだ。でも今、リオネルにその余裕はない。
「君が綺麗だ。とっても、綺麗なんだ」
マコトは顔を上げ、目を大きくした。
こちらの世界にはない、真っ黒な瞳。ランプに照らされても、きらきらと輝いてる。
どんな表情も、どんな一瞬も美しい。真っ黒な瞳は夜そのもので、リオネルの警戒を和らげた。他人に見透かされないよう、いつも心の周りを包んでいた何かが、ふっとかき消えた。
「僕の、僕の夫も美しい人だった」
口をついて、言うはずのなかった言葉が漏れた。
気まずい空白を埋めようとした、別のことを言うつもりだった。
金髪の男は、情けなく瞼を閉じる。もう引き返せなかった。
「僕の子どもは、夫に似て可愛かった。良い子だった」
リオネルの伴侶は深い緑の瞳をしていた。可愛かったマイルも、同じ色だ。ふいに口元が綻んだ。あの可愛い笑顔が、はっきりと自分に向けられていたことを思い出したのだ。
「……今は、いないんだな」
マコトの手は止まっている。声からも、いたわるような愛を感じた。
彼の澄んだ魂の色は、なんという清浄な気配を持っているのだろう。
僕は目を閉じたまま、頷いた。
「マコト、弾き続けてくれ……」
自分が出した声はなんとみっともない、弱弱しいものだった。
マコトの、リュートの音を聴きながら少しずつ話した。
自分の愛する夫と子どもが、六年前に殺されたこと。
悲惨な死。殺された理由も犯人も、何一つわかっていないこと。
血だらけの寝室に入ったこと。
小さな我が子が、見るに堪えなかったこと。
冷たくなった夫イディアンを、彼をこの腕に抱きあげたこと。
マコトは、ベット・ミドラーの「The Rose」を主旋律だけ弾いた。多くの人がカバーをしている名曲だ。深夜ラジオで初めて聴いた時、マコトは赤と黒のラジオを咄嗟に抱えた。声は高くも低くもない中声、金切り声ではない、しかしはっきりと届く、まさに聴かせる声だった。
その柔らかなメロディを届けよう。亡くなった二人のために。リオネルの大切な人のために。ゆっくりと、流れるように、一つの花となって手向けになるように。
またいつか、歌ってやろう。歌詞の説明なんて、野暮ったいだけだから。
リオネルは話を終えると、目を開けた。まっすぐ、子どものような目をする。水色の瞳が濡れていた。
置いて行かれた小さなリオネル。誰にも見せられない、未だ叫び続ける彼の悲痛。それは懺悔と後悔、犯人ともども自らを追い詰める荊だ。
リオネルはそこにいる。
誰も助けることはできない。
ふと思い出した、放課後の音楽室。そう、音楽という魔法を教えてくれたくろちゃん先生だ。
ーーー嬉しい事も哀しい事も分け合っていいのよ、マコトくん。
ーーーかなしいこと? そういう時は一人で泣いてた方がいいよ。かっこ悪いよ。
そう言ったおれに、くろちゃん先生は最初、微笑むだけだった。くろちゃん先生の白髪のまとめ髪、大きなブローチと微笑んだ横顔に刻まれる笑い皺。それは上手に年を重ねた人の顔だった。
ーーーかっこ悪くないと思うなあ、わたしは。
ーーーそうかなあ……笑わない?
ーーー心無い人は笑うかもね
ーーーこころないひと?
ーーーうん。でも……わたしは音楽に泣かせてもらったのよ。
当時は理解できなかった。
だから覚えていなかったんだろう。記憶は不思議だ。
くろちゃん先生は愛した人を、夫を失って、それを分け合うなんてできたのだろうか。
リオネルの子どもは、どんな顔をしていたんだろう。
リオネルの夫は、どんな風に笑う人だったんだろう。
急に、喉の奥が熱くなった。
本当におれは何もわかっていなかったのかもしれない。サイゼルのいう覚悟なんてなくて、ただ流されてここまできたのではないかと思う。
あの棕櫚箒のような髪をした村長の息子だって、笑ったり怒ったり、酒を飲んで絡んだりしながら、あの村で生きていたんだ。
もう一曲、思い出した歌をマコトは小さな声で歌った。
テレビでもよく流れた有名な曲だ。あんな高い声は出ないから、オクターブ下げて。
少し低い、マコトの温和な声が響く。
―――雨上がりの 空を見ていた―――
タイトルは「たしかなこと」。
マコトはホストをしていた時の事、高校ぐらいまでの事は段々と思い出してきていた。
まだ何か、ごっそり抜け落ちている部分があちこちにある気がするけれど、それでも一部の記憶が戻り、洋司先輩や八尋に会った。
同時に、自分の性格の嫌なところばかりが見える。そうして人を寄せ付けるのを嫌がっていた自分がいた。人の体温は温かすぎるか、冷たすぎるかのどちらかで、マコトには馴染まなかった。
マコトが、人のぬくもりを受けとめられない時、音楽がそばにあった。音楽は人を選ばない。それだけで十分だった。
くろちゃん先生のことを思い出せて、本当に良かった。あなたもあの時、こんな事を思っていたのかな。
―――切ないとき ひとりでいないで―――
音楽と一緒にいればいい。立ち直らなくていい。ただ音楽がある。必要な時、出会える音楽がきっとあるんだ。
脱字、細部訂正しました。2023年9月19日




