第四十話 悪態のプロ
第四十話 悪態のプロ
マコトはまた、白い霧の中にいる。
今日は色々あったからもう寝てしまおうと布団へ入り、眠りについたと思ったらここにいた。
霧はどういうことか、闇に見える。この中にいて、行き先を見失い、息もできなくなる。そんな想像をしてしまうほど、重苦しい。
ここはマコトの夢の中だ。
洋司先輩と会った、不思議な場所。もう来られないと思っていた。
ふう、という人の呼吸に振り返ると、能舞台の真ん中にちゃぶ台が置いてある。そこで、黒い髪の男が煙草をふかしていた。
「……八尋」
「…本当に出たな。じめじめナメクジ野郎」
その言い方をするのは世界のどこに行こうがただ一人、ホストで元同僚の八尋だ。
期待していた洋司先輩ではなかったが、泰然としている雰囲気はどこか懐かしい。
八尋は客の前では猫を被っているが、これが本性だ。ずけずけした物言いで畏れ知らず、その上それなりに理屈が通っているこの男が、マコトは最初苦手だった。
八尋で耐性がついていたから、サイゼルにもすぐ慣れたのだろうか。そんな失礼なことを考えながら、一応彼の前に腰を下ろす。
同い年だがホスト歴では先輩だった八尋は、時々ぐうの音も出ないほど、仕事についてマコトを叱咤した。その習慣で、ついつい正座になってしまう。
「なんだよ洋司のやつ、結構いい感じとかホラ吹いたな」
溜息まじりに煙草の煙を吐き出し、灰皿に押し付けて火種を消した。
なんで来たんだこいつ。
そもそも洋司先輩は、仏さんの領分とか、一度きりとかなんとかそんな事を言ってた気がするんだが、どうして八尋がここにいるのか。
全身から溢れ出る、俺様何様八尋様オーラは少し懐かしいと思ってしまったが、罵るために来たのだろうか。
「なんだ黙りくさって。口にボンドでもついてんのか」
「相変わらずの口の悪さに安心してた」
「嘘って顔に書いてあんぞ。嘘つくならもっとマシなやつにしろ」
じゃあどうしろっていうんだよ、とマコトの中にも不快感が募っていく。
こういう奴だった。思い出は美化されていない。こいつはこうだ。
「お忙しい八尋さんが、おれのところにわざわざ出てきてくれたってことか? 本当ご苦労さまです」
「おーおー、洋司に頼まれちまったからな。仕方なくな」
お互い、けっ、とか、ちっ、とか刺々しさを付け加える。わざわざ隠すほどのことでもない。顔を合わせれば大体こうだ。
「おれは、どうせ情けない面してるんだろうと踏んでたが、やっぱそうだったな。お前はお前だ。なにが記憶喪失だ。馬鹿かってんだ」
「いい加減にしろよ八尋。おれはおれで今苛々してんだよ」
「おおしろよ、勝手にしろ。おれには苛々よりジメジメに見えるけどな」
ははーんと笑いまで加えて、高飛車に上から物を言う。
「異世界に行っただか何だか知らねえが、それだけでお前の根本がそんな簡単に変わるかよ」
口に油でも注したのかと思うほど、べらべらとよく回る。
「そうですね。八尋さんのおっしゃる通り、環境が変わったところで、記憶が奪われたところで、魔法があったところでおれはおれですね」
「ま、魔法ってやっぱりあんのか!」
黒目がちな瞳が、夜中の猫のようにきらりと光った。
「これ、ここに来てるのも魔法だし」
「洋司のやつに聞くと、仏さんとか胡散臭いもんな」
「あとこっちは男しかいないし」
「なんだ、お前良かったじゃねえか」
「え……」
「女、抱けねえだろ」
胸が一瞬、圧し潰されたかと思った。うまく息ができない。
言葉を理解しているというより、何かが無理矢理こじ開けられた感じだ。脂汗が滲み出る。
「それなら、合ってんだろ、そっちが」
「…いや…でも…今、命がけの闘いの前っていうか」
なんとか絞り出した。か細い息のようなそれで、脂汗をかいたことを忘れようとしている自分がいる。そうだ、今は白い村のことが大事なんだと自分に言い聞かせた。
「は? 命がけ?」
「…記憶盗られるくらいだ。結構物騒なんだよ…実感ねえけど」
「ふーん、ま、どこにいってもそうだと思うけど」
「日本じゃ戦闘はないだろ」
「それ以外が戦闘より楽だって?」
ぐ、と返答に詰まった。やはり八尋は、理屈というか、一本通っている奴だ。
「陰湿ないじめとか、いい歳した大人がおかしな犯罪したり、虐待だって人が知らないところに隠れてる。賃金やら雇用問題やら挙げればキリがねえだろ。どっちが楽とかじゃねえし」
洋司先輩が、八尋はあれでなかなかハードな人生経験してるみたいだと、いつか言ってた。
―――だからあいつが言う事は、結構キツイけど。それが必要な毎日だったんだよ。
それはわかる。八尋が突き放した物言いをする時は、優しさを履き違えずに人と真っ当に向き合う時だ。
いつも口の悪さで、何重にも人を寄せ付けない。
でもおれに言う事はいつも本当の事だ。性悪だが、嘘偽りがない。
こういうところも、サイゼルと少し似てるのかもな。
―――マコト。てめえホストなめてんのか。酒の許容量もわかりませんじゃねえんだよ阿呆。客に飲まされるんじゃねえ、お前の接客が下手くそなんだよ。
働き始めた頃、店の裏で酔いを冷まそうとしたおれをすごい形相で追いかけてきてそう言った。それだけで頭の半分が冷えた。
「…なんだ思い出し笑いか? 気持ち悪い」
「お前に怒られたことを思い出してたから、そら気持ち悪く見えるだろうな」
「あ?」
八尋が次の煙草に手を伸ばしたので、おれはさっとライターに火をつけた。
しまった、これじゃおれがこいつに敵わないみたいだ。
ふーっと長く煙を吐き出すと、少しだけ皮肉めいた笑顔を見せた。
「ま、命がけでもなんでもやるんだろ、お前は」
「…状況的にやるしかないんだ。よくわかんねえままだけど」
「それでウジウジじめじめしてたのか。なんだ」
ははっと白い歯を見せて笑う。八尋にしては珍しい。
おれが目を丸くしていたのか、八尋は形のいい唇を歪ませた。
黙っていれば王子様、ドラマや少女漫画にいそうな綺麗な顔だってのに、中身が、性格の悪さがにじみ出ている。
「お前はどんだけ売れても給料を実家に送ってたんだぜ。女が好きでもねえ、話もうまくねえ、酒も大して飲めねえ。そんな奴が金のためにそんだけの事してんだよ。こんな奴がよく歌舞伎町に来たもんだ、見てくれだけのくせにっておれは思ってた」
「おい」
「でも洋司がやたら構うし、圭一さんも長い目で見ようって言ったからな。おれは続かねえと思ったけど」
「おーい」
煙草を挟んだ指には、高い指輪が重そうに光り、宝石つきの時計が得意顔して巻き付いている。八尋は生粋のホストだ。中途半端な奴は嫌いだし、上下関係も店の規則にもうるさい。
「自分のこと差し置いて、働いてたんじゃねえの。半分やけっぱちでも、お前はそうだった」
夢じゃないか。あ、これ夢だったか? とにかく、あの八尋がおれを褒めているみたいに聞こえる。
「ホストがだめなら臓器だって売っただろ。それがなんだ、戦闘? 命ならとうに賭けてる。今更なんだよ」
そういうと、煙草をくわえる。
そうして、おれの顔にふーっと煙を吹きかけた。最低なやつ。
「ばーーーか」
おれが煙に噎せるなか、八尋はそう言って笑った気がする。
白い煙の向こう側に、その顔も、景色もゆっくりと消えていった。




