第三十八話 飢えてはぐれた狼
第三十八話 飢えてはぐれた狼
リオネルとトマが、マクナハンを伴いナシラを外に連れ出した後、ちょっとした騒動が起きた。
マコトはテントの中を見て回っていた。サイゼルが魔法で布を広げた時の事を思い出しているらしい。
魔法というものが御伽話でしかなかった彼からしたら、その御伽話が現実になったと心が湧き立つのも無理はなかった。
「サイゼルもリオネルも、すごい魔法だ。おれもあんな風に使える日が来るかな」
黒い髪をかき上げて、微笑むように言ったが、サイゼルは眉根を寄せた。
「……マコト。お前、今がどういう状況かわかっていないのか」
サイゼルの、急な物言いにマコトは戸惑う。
「いや、その…聞いただけだ。おれにも出来るかって」
「この状況を呑み込めてないからそういう質問が出るんだ。考えなしにな」
「考えなしって、あのなあ」
声色が硬い。声は段々と大きくなる。騎士や侍従も、互いに顔を見合わせるが、止めて良いものかわからない。
「白い病になった村のそばにいるってことはわかってるよ」
「は、大間抜けの答えだな」
「なんだと」
「それで、お前に、魔法を使って何かできるって?」
サイゼルが腕組みして。軽侮の目を向けた。あからさまな態度に、マコトも知らず知らずのうちに拳を握りかためていた。
「なん、か、その言い方…いや出来ねえよ、出来ねえけど!」
「出来ないことの可能性を口にするのが今か」
「おれが白い病をどうにかするんだろ?! 転移者だから!」
サイゼルが鼻で笑うと、ついにマコトはサイゼルの襟をつかんだ。だがサイゼルはあくまで冷静さを崩さない。
それが余計、マコトを苛立たせた。
「何が言いたいんだよ!」
「考えが足りないんだよお前は。考えも行動も足りない。聞くことは本当に魔法のことか?」
「ほかに何があるんだよ!」
マコトが掴んだ襟を強く引いた。サイゼルがマコトの足を払って引き倒す。互いに取っ組み合いになった。冷静に見えたサイゼルも、内心ではどうなのだろう。互いに苛立ちを募らせているが、それは何に対しての苛立ちか、それを自覚しているのか。
ピッケはおろおろしているが、ジャンは皆に、成り行きを見守るよう口に指を当て首を横に振った。手を出さない、そう指示したらしい。
そしてテントの中はクッションや布で柔らかい。多少のことがあっても大丈夫だろう。
感情的なマコトも、本気で怒っているらしいサイゼルも、従者たちには珍しく映った。
「おれは何度も聞いただろ! 覚悟は決まったかと!」
「それがなんだよ!」
床で互いを組み伏せながら転がり、マコトがサイゼルを組み伏せるように上になった。
下から、サイゼルの琥珀色の目が獰猛なまでに光る。
「失敗してもいいと思ってるのか」
荒い息を整えながら、静かな声だった。思い付きで口をついて出てきたわけではない、そんな響きがした。サイゼルはマコトに対して、ずっとそう思ってきたとでもいうのだろうか。
「何、だよそれ。思ってねえよ!」
「白い病の実態は誰も知らない。何があるかわかっていない。なのにお前はどんな準備をしたんだ」
「だから今さっき魔法のことを」
「だからお前が魔法なんて使えないだろ!!」
サイゼルは徹底的に、マコトの言い分を潰しにかかった。言い逃れの隙もない。
彼の思い通り痛い所を突かれたのか、一瞬、マコトは顔を歪めた。
「じゃあどうしろってんだよ! わからねえことだらけで!」
息を整えて、吠えるように返した。
精一杯の虚勢かもしれない。身体はどこも熱くて、その熱が息苦しい。全部吐き出してしまいたい。吐いたら楽になる。その一瞬、マコトはそう感じた。
「わかっていることに目を向けることもせず、自分の怠慢を吠えるのか」
「さっきからなんだよ! 怠慢?! お前がそう思うのは勝手だがな、おれの苦労はお前にはわからねえだろうが!」
マコトの目が歪んだ。その隙を突くように、サイゼルは大きく腕を左に振り、相手を床に沈める。マコトはしたたかにぶつけた身体に痛みを感じたが、ぐっとこらえて小さな呻き声を漏らした。
上下が入れ替わった。今度はサイゼルがマコトに、馬乗りになって四肢を封じ込める。サイゼルが握る手や足を、マコトが振りほどこうとしても微動だにしなかった。
「っなんなんだよ!」
「お前の苦労なんて知ったことか」
「あ?!」
「命がかかってるんだ、人命がかかっているんだぞ」
「わかってるって」
「ポルドスの死体を見て逃げ出しそうだったお前に、何がわかってるんだ」
「ちが…あれは、あれはそうじゃない! 別の」
「なぜ、他の転移者のことを聞かない」
「…え」
「お前とは違うから、記憶があるやつとはどうせ違うから、そう思ってんのか」
「いや……」
次から次へ、サイゼルは畳み掛けた。その一つ一つは、たとえゆっくり、落ち着いて聞かれたとして、マコトは誠実に答えられただろうか。
もう大きな声は必要なかった。
マコトの顔に悲壮な、窮地に追い込まれた怯えが浮かんだように見えたからだ。
「命がけだと、それがわかれば形振り構ってられないはずだ。なんとしてでも白い病を倒そうと、自分にあるものを見つめるはずだろう。違うか」
マコトは言葉を返さなかった。
返せるだけのものを、持っていない。そう自分自身を理解していた。
「お前がお前から目を背ければ、それだけこの国の人間の命から目を逸らしているということだ。ここにいる騎士も侍従も、お前のせいで死ぬかもしれない」
「……やめてくれ」
「ほらまた、逃げるんだな」
「……おれが、おれが全力で何かしたとして、届かなかったらどうする」
マコトは腹の底から絞り出すように言った。押さえつけられた手が痺れ、不規則な呼吸が、返事以上のものを訴えている。
熱く煮え滾った湯の中ある布を取り出して、素手で絞るような、居たたまれない怒りと痛みに、マコトは耐えなければならなかった。
臆面もなく、この場から消え去りたい。影も形も、風に飛ばされて消えてなくなればいいのに。
自分の身体がここにあるという確かな痛みが、余計に彼を傷つけていた。
「全力を出す前に尻込みか、余裕だな」
「先の事を考えるなって? おれが出来損ないで、なんの役にも立たない転移者だったとしたらどうなる…おれが、おれが全力を出しても届かなれば、おれはもうどこにも居られないだろ!」
行く当てもなく彷徨う夜を、マコトは知っていた。
情けなかった。
独りで彷徨い歩く夜は、どこを向いているのかすらわからない。ずっと暗いまま、どこにも行けないほどの独り。吠えることを諦めた狼のように、項垂れるばかりだ。
―――姉貴!
―――どうしてユキちゃんが
―――おれ知ってるよ、あの車だよ!
―――でもねえ、あそこのお宅は良い夫婦で
―――違うよ!おれ聞いた!あの車のエンジンだ
―――子どもの聞き間違えでしょう
暗い夜に響くのは悲痛な泣き声と、子どもの高い声だ。
おれは、姉貴を、あのとき、姉貴を。
マコトは一瞬、目をつぶって過去を見た。
思い出したくなかった。知りたくなかった記憶の断片が、彼に二の足を踏ませる。
どうして。
よりにもよって、こんな記憶が戻ってきたのか。
それを彼らに言っても詮無い事だ。
だから黙っていた。
克明に思い出す、夜の匂い。
あの時、姉貴と田舎の畦道にいた。二人で何を話していたか、それはわからない。なのに、なのに、そこに照らされた車のライトは覚えている。
そしてその後、小さなマコトに何が起きたかも。
閉じ込められた記憶の箱から、持ち主の元へ戻ってきていたのだ。
ポルドスの遺体を見た、棺桶を開けたあの瞬間に、記憶はその主人の許しも得ず、より鮮やかになって戻ってきたのだ。
自分は役に立たない小さな子どもだった。
世界に裏切られた。
おれの声は、どこにも届かなかった。




