第二十一話 おにぎりの香り
第二十一話 おにぎりの香り
バスの二階に上がると幌の屋根がついており、どこかの屋上テラス席のようだ。
設けられたテーブルに着く前に、おれは目の前の景色を堪能している。
相変わらず空には二つの太陽が昇っているが、何よりすごいのは地平線まで広がる平原だ。所々に木々や茂み、牧草が群生していて、それを遠目に見ることで馬車の速さがわかる。風や音をほとんど感じないのは、そういう魔法で守られているからだそうだ。
馬車が走ってきた方角には王都が米粒のように小さく見える。広い街道をひた走る馬車の前方には数騎の先導がいて、後続には同じような大きなバスのような馬車と荷馬車が走っているらしい。馬車を引く四頭の馬は背中しか見えないが、とても大きい。上から御者を覗き込むと、手綱を握ったジャンが笑い返してくれた。
「お気に召しましたか?」
トマが朗らかに声をかけるので、ああと答える。さっきから二階で何をしているのかと思ったら、おれたちの食事を用意していたらしい。それにしても、寝台特急やレストラン付きの電車があるのは知っているが、馬車でこんな風に過ごせるとは思わなかった。
それも、肩肘張ったテーブルクロス付きのものはなくて、カジュアルな感じ。テーブルは離宮で使っていた飴色の木製のものと同じに見える。
カフェテラスというより老舗の珈琲喫茶、といった方がしっくりくるかもしれない。こういう店は歌舞伎町で朝まで営業していて、冬の仕事終わりにはおでんも出してくれたな。変だと思うけど、それがなんだか好きだった。洋司先輩はそういう店が好きで、よく一緒に飯を食って帰ったな。
致し方なくリオネルの向かいに座る。もう敬称なんてつけない。おれはもっと身体を鍛えて、そうしていずれ良き時に、必ず一撃をお見舞いすると心に誓ったからだ。
ところがおれの関心は一気に別の物に移った。
「こ、これは…」
机の上に置いてくれた皿には、なんとあの三角形がある。色は真っ白ではないがこれはどう見てもあれだ、期待は禁物だがこれはあれだ。
「おにぎりだ」
感動して眺めていると、冷めますよと可笑し気にトマがいうので一つにかぶりつく。
牛肉のしぐれ煮のような味に、香辛料が入っている。柚子胡椒かわさびのような、ちょっと鼻に抜けるのがたまらない、大人の味だ。
「ん~~!」
たまらない。米の触感はぷちっとしていて麦に近く、白米のような甘味はあまり感じないが、たれが染み込んでいるこの感じはまさしく正しいおにぎりと言える。最高だ。手づかみで食べられるのも嬉しい。
「マコト様、これはハヌという穀物を炊いたものでして、王都から南方に下ると穀倉地帯があるのです。ハヌは他国でも食べられますが、このような食べ方をするのはこのジアンイット独自のものであり、当然先代の転移者殿がもたらした食文化は」
「トマ、聞いてないみたいだよ」
なんつー旨味だ。食べれば食べるほど元気になるような気がする。二つ目のおにぎりの具は、昆布に寄せたんだろうな。海藻を煮詰めたようなものに、胡麻がふってある。ホッとするような味わいが、お腹をあっためてくれる。
付け合わせのスープは粕汁に近い見た目だが、ちょっとだけニンニクを使っているようで、おにぎりの味わいよりパンチが効いている。野菜がたっぷり入った大きめのボウルいっぱいで、それをアツアツ、はふはふしながら食べていると追加のおにぎりを出してくれた。
最高だ。
「マコト、ねえ、マコト。さっきのこと怒ってるの?」
「……え?あ、何?」
おれは夢中で食べて、食べ終わってひと息ついたと思ったらぼんやりしていたらしい。身体も薄っすら汗をかくほど温まり、これ以上の幸せなんてない、という心持ちだ。目の前の中年男のことなんてすっかり忘れていた。目にも耳にも入らなかった。
「さっきのこと、サイゼルとの」
「あ?あ~」
そういやなんか言ってたな。
リオネルは訊ねてきたわりに、変な顔をしている。どうしたんだろう。
「でも良い香りがしただろう?サイゼルから。感じなかったかい?」
「香り?」
そういえば、と思い出す時に注意したいのはおれがうっかり見てしまった肌の部分だ。回想ではあるけれど、こう白い雲みたいなもので隠して思い出そう。見ない、おれは知らない。そう言われてみると、起きた時に良い匂いがしたと思う。
「そういや、なんかスパイスみたいな匂いがしたな…でも香水っぽくない。紅茶に近い香りもしたんだが周りにお茶のセットは無くて、変だとは思ったんだ」
「それが魔力の相性さ」
優雅にお茶を飲みながら、彼はとても意地が悪そうだった。リオネルはふう、とひと息つく。だからさっきから一体なんだっていうんだ。
「その相性がなんだっていうんだよ」
おにぎりで良い気分だったので、少し複雑な気がする。
「マコト様、転移者の資料を読み返したのですが、先代様も大変驚かれたそうです。私たちには、魔力の相性の良さが嗅覚でわかるんですよ」
「嗅覚? あの香りがサイゼルからしたってこと? じゃあ二人にもわかったんじゃないのか?」
「いいや、魔力の相性が良いもの同士にしか感じない」
リオネルは、こっちに目を合わせようとしないのに、どこか刺々しい声色で話す。
こいつ、一体なんなんだ。おれがサイゼルの香りがわかったからって、それがどういうことなのかさっぱりわからない。魔力の相性とは聞いたけど、それで何がどうなるっていうんだろう。
全く、大きな子どもみたいで苛々するな。
香りと言われて、香水だったらわかる。仕事でよく使っていた。おれの香水は大手化粧品ブランドのものだが、一番軽い香りを選んでもらった。煙草は吸わないので、匂いが混ざる心配もなく、かといって重すぎるのは酔ってしまう。自然なものが良かった。確か圭一さんとデパートに行って選んでもらった気がするな。
「確か、こう説明するといいとか。互いにフェロモンを出し、誘い合っていて、それを感じるのが嗅覚だそうで」
「ふぇ、フェロモン?!」
そういうのは胡散臭い雑誌に載ってる謳い文句じゃないのか。動物や昆虫が持っている繁殖期のフェロモンを人間も持っているという眉唾もんのやつだぞ。そんなの信じるやつの気が知れないと思っていたが、こっちにはそれがあるのか。
おれは、さっき食べたばかりのおにぎりの匂いが懐かしくなった。