第十四話 金は火で試みる
寝室は東国と南国の様式を混ぜ、宿屋の微細な心配りと感性を推し量ることができた。
低いベッド、籐で編んだカウチ、大きな葉の植物の鉢植え。ガラスや陶器の飾りに、藤の花を見立てた組紐の飾りが壁にかけられている。
中でも飴色の家具は、木材に漆を塗った高級品だ。それをさりげなく配置して、観葉植物との色合いで目を楽しませている。
丸窓から抜ける風はどこかほんのり甘く、花の香りを運んでくる。
仕事でなければ長く滞在しても良いと思わせる、趣向がリオネルの好みであった。
灰色の毛並みを丁寧に整えられたバックは、上機嫌でリオネルの足元に伏せている。
先の町ではこの大型犬が大活躍だった。人間には感知できないものがわかる、というのは非常に頼もしい。
ランプの灯りを小さくしようか、とトマに言いかけた途端、バックは首を持ち上げた。
耳をぴんと張って、微動だにしない。
「バック、どうした」
バックはぐるりと振り返った。
そちらは壁しかない。じっとその壁を見つめて、バックは小さく唸り出した。鼻に皺を寄せ犬歯を剥き出しにする威嚇行動だ。
様子が変だ、と思いリオネルは読んでいた書類を置いた。
「バック」
二度目に名前を呼んだとき、壁の向こうの隣室から悲鳴が聞こえる。劈くような叫び声。
バックは部屋を飛び出していた。
そうしてリオネルが隣室に飛び込んだ折に見たものは、小さな黒い影が窓から飛び出していく後ろ姿だった。
四つ足、一瞬のことでそれしか目に入らなかった。
集まってきた騎士たちがそれぞれランプの灯りをつけ室内を照らす。
マハーシャラはジャンに合図を送り、部屋の外へ駆けていった。
一瞬見えた、あの黒い影を追うのだろう。
低いベッドの上には、憔悴し、脂汗をかいたマコトがいた。
目の焦点が合わず、ジャンが必死で声をかける。部屋に漂うのは悲壮感だけではない。
リオネルは信じがたかった。
離れていても、こんなに強く香る魔力を未だかつて知らなかったからだ。
白い花の瑞々しさと、わずかにムスクを感じる。緩やかな、乳を温めた香りがいやでも郷愁を誘った。
官能はひそかに身を潜め、身体の力が抜けていく安堵感すらある”白い香り”だ。
やはりそうだったのか。
これがマコトの、神子が惹きつける力というものか。
リオネル大公は思わず手で呼吸する鼻や口を押さえた。後ろに一歩さがり、項垂れて介抱される黒髪の男を見やる。
なんということだ。
僕は、彼の窮地に、非常識なことを考えてしまった。
どうしたらあの香りを、自分だけのものに出来るのだろうか。
※
「……あれ、見たか?」
やっとのことで、マコトが言葉にできたのはその一言だった。手がまだ震えていて冷たい。暑いはずの室内で、指先の感覚がわからないほど、冷たかった。
足に残った嫌な感触は指、人間の手の感触と変わらない。
頭を何度も横に振る。払拭しようとする。今、考えることは過去じゃない。
あの映像は、後回しでいいんだ。思い出したことにはきっと意味がある。
けれど恐怖が自我を勝れば、すぐにでも震え出しそうだった。
「いや、よくは見えなかった」
「四つ足だったように見えましたが」
リオネルとトマが続けた。
「……ちがう」
掻き消えてしまう声で、マコトは否定した。這い上がる痛みで喉が引き攣る。それをグッと堪えた。
喉が詰まる、嫌な炎症でもあるかのように。
「人の言葉をしゃべった……変な喋り方だったけど、聞き取れた」
皆、顔を見合わせる。
ふと、マコトはあることに気付いた。
「バックは?」
「え?…ああ、多分マハーシャラと一緒に、あの黒い影を追っていったんだと思うけど」
リオネルの話は途中までしか聞こえなかった。
そうか!!
わかった、わかった。あの時の感触がどういうものか。
女の細い指とは違った。何が違ったのか、ようやく違和感と感触が繋がった。
「毛だ……」
マコトが呟いた言葉に、また一同は顔を見合わせる。
「……黒かったのは、体毛か? 身体を覆うほど長いのか?」
「おれがバックと間違えたのは、そこだったんだ。最初、バックが足元にいるのかと思ったんだ」
リオネルの呟きにマコトが急いで付け足した。
まだマコトの心臓はドラムのように早いリズムを刻んでいる。
落ち着いてきたとはいえ、息苦しさがあった。
「しかし、一頭身くらいでしたよ。それこそ大きい猫くらいの」
「でも喋ったし、あれは猫の目じゃない」
マコトは力を振り絞る。恐怖で引きつった内臓を叱咤して、声を出す。
「おれの魔力が美味しいって、確かそんなことを言った。おれの足首を掴んだ。ものを掴める手は、犬や猫にはないだろ」
震えるマコトの声に、侍従騎士であるジャンは青褪めた。
「そんな……マコト様、ただでさえ気を失われたのに……」
「うん……ちょっと、後で風呂にも入りたい」
リオネルはトマと視線を合わせると、ひと呼吸おいてマコトに向き直った。
「マコト、このエミレでは」
「それは絶対、嫌だ」
マコトの黒い瞳が、星が瞬くように光った。
血の気の失せた白磁の肌がランプに照らされる。彼は尚も、まだ何かを訴えていた。