第十一話 富の回廊
柔らかな風が花の香りをのせて運んでくる。
高級宿屋の支配人は頭に小さな赤い帽子を乗せ、揉み手しながら営業用の笑顔を作った。ふっくらとした下膨れの顔は、いかにも景気が良さそうで、それでいて尊大な印象を与えない。
さて、今日も上客がやってくる。そう胸を躍らせている。
「これはこれは旦那様、お早いお着きで」
支配人は恭しく礼をして、慣れた所作で案内をする。荷物を受け取ったドアマンたちは、部屋へ先行するのだ。
これで客は、宿屋の支配人に案内されながら、ゆったりと説明を受けられる。
これは南部の貴族だろう。作り笑顔の下で支配人は思った。
まず着ているものが全体的に薄手で、腰を担ぐ従者は上半身に衣服を身に付けていない。一行は全員頭に布を巻いており、こういった習俗があるのは強い陽光の差す南部のはずだ。
商人だと言っているが“旦那様”はいかにも高貴な所作をする。一つ一つの仕草が優美なので、とても庶民の出には見えない。華やかな顔立ち、水色の瞳も人の目を惹く。大きな犬は狼のようで、最初は戸惑ったがその分料金に色をつけてくれたので文句は言えない。その犬はどこか誇らしげに、胸を張って旦那様の後ろにぴったりと張り付いている。変わったペットだが、防犯用なのだろう。この様子なら躾は大丈夫そうだ。
輿を担いでいる従者たちに目を遣ると、引き締まった身体をしていた。
水夫や船頭たちとも違う身体つきだ。特別に訓練され鍛え抜かれているのがわかった。
高級宿屋は職業柄、人を見る。商人たちとの腹の探り合いは産湯に浸かる前から聞いていた。
なんにせよ、相当な金持ちなのには変わりない。輿に乗る夫人は小ぶりの孔雀羽の扇子で顔を隠しているが、素晴しい肌艶、美貌の持ち主だろうと予測がついた。
宝石は大した財産ではないが、その加工技術は重要だ。
自分はこれだけの職人を育てている、そう知らしめることができるのだから。
「良い香りだね」
「ええ、中庭の藤の花がちょうど見ごろでございますよ」
様子を窺いながら、けれど失礼のないように丁重にもてなす。
従者たちは顔色を変えない。
この石の回廊も、優美な東国風の造りで宿屋の自慢の一つなのだが、それに動じない。
やはり、良い暮らしを普段からしているのだろう。
「客室は全て独立した棟となっております。風呂もございますし、中庭や廊下で他のお客様と鉢合わせすることもないでしょう。何かあれば部屋の取っ手を引いてお呼びくださいまし」
金持ちは色々と注文が多く五月蠅いことがある。特に、私的な利用をする場合は、仕事と切り離したい、知り合いに出くわすと後で厄介なことになるというので、こうした視界を遮る工夫は重要だった。
旦那様は回廊を見回しながら感心しておられる。
「初めて来たが、良い趣味をしている。風が心地良いね」
「ええそれはもう。旦那様の宿泊棟は『琴の松』と言いまして、藤の中庭をご覧いただけます。他にも季節によって『琵琶の柏木』『笛の柳』とお部屋を変えますと、異なる趣をおたのしみいただけますよ」
「なるほど、瀟洒だ」
「ご満足いただけるよう、わたくし共も精一杯勤めております。自慢できるほどの自信がなければ、この商売はできませんので」
ちらり、と支配人は輿に乗る夫人に目をやった。
これで夫人も気に入ったと言ってくれれば良いのだが、物静かな方のようだ。
黙って、たまに扇子であおぐだけだ。
しかし、見れば見るほど細かい意匠に凝っている。旦那様ももちろんだが、この夫人の服は相当金がかかっているはずだ。
目が肥えた者が見れば、繊細な織物と絹をふんだんに使っているとわかる。
顔立ちは見えないが、着飾りたいと思わせるような美形か、寵愛を受けているか、その両方か。顔を見せないのは習俗か、それとも旦那の独占欲か。興味をそそられた。
支配人がそのしなやかな腰に目を遣ると、咎めるように従者に睨まれた。
おお怖い怖い。これ以上の詮索はやめておこう。
知らないままでいるのが一番。この商売は、知りたがりも多いのだが、それは礼儀に反する。長生きしたければ余計な口出しも厳禁だ。
「旦那様は、かのリリーボレアの王族のご紹介と伺いました」
揉み手をしながら店主は続けた。
「いやあ、なんですな。旦那様の商いは大層ご信頼が厚いようで。いえこの宿屋は老舗でございますし、近くに西方軍の本拠地もありますから、滅多なことはございませんがね。わたくし共は信用で成り立つので」
「ああわかった。リリーボレアの王后さまにはよろしく伝えておくよ」
店主の揉み手が一層激しくなった。
「ありがとうございます」
「では、トマ、あれを」
従者の一人が、布に包まれた四角いものを差し出した。
「おお、これは嬉しゅうございます。ああこちらの棟が旦那様方の『琴の松』でございます。ではわたくしはこれで」
ふっくらとした頬を少しばかり紅潮させて、短い足をちょこちょこ動かし小走りになりながら、支配人は玄関へ戻ってきた。
「おいお前たち! 『琴の松』のお客様はくれぐれも丁重にな! いつも言っている通り余分な差し出口はしないこと! 詮索もするな!」
ドアマンやフロント係は顔を合わせて苦笑いした。
「そういう支配人が一番噂好きな癖に」
「違いない」
「やかましいっ! いいかお前たち! これを見ろ!」
支配人が見せたのは、いまの客から受け取った四角い小箱である。
布に包まれたそれが、ひとたび開けられると皆顔色を変えた。
中には金貨と魔石が入っていた。こういったチップの渡し方は普通だ。驚いたのは別の理由からである。
「これは……すごいな……」
チップが、滅多にお目にかかれない木彫りの小箱に入っていたのである。
その見事な透かし彫りは、植物が絡み合う緻密な模様になっており精緻の極みだった。
中身より、入れ物の方がよっぽどの値打ちものだ。
「うむ。このジアンイットも木工芸では負けていないが……」
「これ、そんなに軽々と人にあげるものじゃないでしょう」
「だからお前たち、いいか、気を付けろよ」
「だから、支配人が、ですってば」
「や、やかましいわいっ!」
支配人は軽口を叩かれても上機嫌のままだった。それはそうだろう。これひとつで、しばらく同業者に自慢が出来るのだから。