大学都市編 大師ベネトナシュ⑤
サイゼルはサイヤの話に呑み込まれないよう注意を払っていた。
おれが気付くことを、身辺調査をあのトマ・スーレンが見落とすか?
洞察力のあるリオネルだって、サイヤが発育不全だとわかりそうなものを。
その疑問は、河の街ディアメのバートン邸を出る時にわかった。
トマは、サイゼルがサイヤを連れて行くと決めたことに、勘が働いたらしい。
邸の外で走り書きを渡された。
―――サイヤの出生記録の偽造については知っています。それでも本人の人柄に間違いないと判断しました。
また、故郷に守るべき院長がいるといるのが彼の支えです。その支えがある間は大丈夫でしょう。
しかしこれは知らせないように。院長は酒に溺れています。
サイヤの仕送りを酒代にして飲んだくれているようです。―――
その走り書きはすぐ焼いてしまった。
ふう、と深く息を吐く。
恐らくは逆だ。育て親である神霊院の院長、聖職者が酒に溺れているとわかってから、その原因を突き止めようとしてサイヤの出生記録に辿り着いたに違いない。
死んだ子どもたちを思ってか、サイヤを思ってか、自分の行いを恥じたのか。理由はわからないが。
ただわかるのは、サイヤには守るべきものがあり、その老人にはもうないのだ。
サイヤは健気に、老人の嘘に付き合ってやった。
それしか出来ないと踏んだのかもしれない。
その事を咎めるつもりはなかった。
知らなくていい、知らなくていいという権利がある。
知りたくないことは無理に知らせることはないのだ。
わずかな綻びで二人の人間が壊れてしまうだろう。その脆さが、気がかりではある。
そしてここからはサイゼルの推測だが、神霊院の老いた院長もサイヤにだけは知られたくないと思っているのではなかろうか。
弱さや恥を知ってもなお、受け入れがたいものや守りたい何かがある。
俗にいう、知らないほうが幸せだった、ということだ。
学者にとって、大学都市にとっても強烈な皮肉だ。
「これはここだけの話だ、サイヤ」
サイヤが顔を上げて、何度か瞬きをした。
サイゼルは元々、誰かに言うつもりはなかった。トマが気付いてなかったとしても、害がなければ黙っているつもりでいた。
幼少期の魔力不足の影響は、サイゼルが一番良く知っている。
自分はたまたま父親が気付いてくれた。そして"白い子"に対する非難があっても、自分をその腕に抱き上げ、会議にそのまま参加していた。
母親が早くに手放して、小さな体のままだった。魔力が上手く循環せず、子どもの頃は熱を出す事が多かった。
父の情けと、あの暖かい腕が無ければとっくに死んでいたのだ。
それで何度も母親に鞭打たれることになっても。
その後、他国に逃れてまで生き延びようと思ったのは、父のためだ。
母親の暗殺に抵抗し、生き延びようとしたのは父のためだ。
父が生かしてくれたから。そしてそれが如何に貴重なものか、サイゼルは"白い子"の歴史を知るたびに思い知った。
その父王は何年も前に引退し、老衰で亡くなった。
葬儀に出ることは叶わなかった。自分がどこにいるか、それだけで物議を醸すからだ。
ジアンイット王国の名代で、リオネルが父の葬儀に出てくれたことには、本当に頭が下がる。
父の訃報で何度も泣いた。年甲斐もなく声をあげて泣いた。悔しくて何度も泣いたから、サイゼルは自分の研究をやめない。
進む道を誤らない。
他人から見ればその姿勢が強く映るのかもしれない。
だがサイゼルから言わせれば、そんな御大層なものではなかった。
あちこちに返しきれない恩がある。
父に、リオネルに、ヨギに。
そしてこの大学都市で、兄のように父のように親しく接してくれたもう一人の家族。
それが大師ベネトナシュ。
サイゼルは彼の直接の弟子なので、普段は師父と呼んでいる。
ベネトナシュはサイヤの話を聞き終わると、空になったティーカップを手近なところへ置く。二人の若者を見る深緑の瞳は、知性と慈愛を知る人の瞳だった。
「師父、おれは今回の“白い病”を調べている。捕まえた白い虫のことでメンカリナンに会いたいんだが」
そういうと、大師ベネトナシュは片眉を吊り上げる。
両手を後ろで組み、薄い唇を少し歪めてこう言った。
「それは何とも、差し迫った用事のようだね」
自分の天敵のような男だとしても、サイゼルは会わねばならない。
月蛍石で確認したとき、確かに奴の名前は光っていた。奴がこの大学都市にいるのだ。
思い出したくない、会いたくない、言葉を交わすなんてもっての他だと思っても。
嫌いだからといって、利用しない手はないのだ。
この道を進まねばならない。
サイヤも、自分も。
飲み干した紅茶は、華やかな香りのわりに渋味が出ていた。
あいつみたいだ。いや、あいつのことを考えたからそう感じたのか。
「青い冒険家」と二つ名を持つ、魔法生物学者メンカリナンは、立場がサイゼルと似ている。
彼は砂漠の国の王族だった。