大学都市編 大師ベネトナシュ③
ひれ伏すサイヤの顔に、汗が幾筋も伝って床にぱたぱた落ちる。
その時、ふっと黄緑色の火が消え暗闇が二人を包んだ。
サイヤは自身の手すら見えなくなった。
真っ暗だ。だがそれはほんの少しの間のことだった。すぐにサイヤがひれ伏していた床が、模様のある絨毯に代わり、複雑な植物模様が見えた。手のひらに当たる感触も違う。
「怖い顔して尋問かね」
「あんたが始めたことじゃないですか」
頭を上げられないが、サイゼル殿下の他にもう一人いる。
サイヤは恐る恐る、ゆっくり、少しだけ顔を上げた。絨毯の模様の先にこげ茶色の革靴と机の脚が見える。
「顔を上げなさい、青少年」
促されるまま目線を上にあげると、柔和で知的な、壮年の男性がいた。
髪は伸ばして後ろに流し、もみあげから顎髭まで繋がっている。顔周りは過不足なく手入れされていて、清潔感もあった。薄手の白いローブのような長衣を数枚重ねて着て、それも華美ではないが、全体的に上品といえた。
「怯えているよ、かわいそうに」
「時と場合による。理由にもよる」
「全くお前はカタイなあ」
ゆったりと喋るその人は、サイゼル殿下を嗜める。
壮年の男性は、二人に椅子をすすめた。
その男性は後ろを振り返ると、後ろに流した髪の毛が、途中で緩く束ねられているのがわかった。飾り紐の先に、綺麗な飾り玉が小さく揺れている。
ブルネットの長髪は良く梳られている。全身はローブなので、顔と首、手元だけが肌色を覗かせる。
こういった丁寧な身なりの人は、身分や位が高い。
衣類は国ごと、文化で違っていても、どこを見ても粗野な印象を与えない。
男は慣れた手つきでティーポットからお茶をそそいだ。三脚のティーカップは事前に用意されていたのだろうか。宮廷で使うものと酷似した、優雅な薄い磁器である。
その落ち着きを払った動き、声に、こちらまで影響を受ける。茶葉が開いたときの良い香りも漂ってきた。
先ほどまで五月蠅かったサイヤの心臓の音は、わずかに落ち着いたようだ。
サイゼル殿下に見抜かれていた。
そう思ってサイゼル殿下を見る。自分はいまどれだけ情けない顔をしているのだろう。
だがサイゼルはサイヤを見なかった。
「春鶴の身体とも違うんだ、発育不全というのは」
ただそう言った。
発育不全。
「まあまあ、そう逸るなサイゼル。私の自己紹介もさせてくれないか」
ふん、と鼻を鳴らして、サイゼルはそっぽを向く。
壮年の男性はそれに構わずに、お茶をサイゼルとサイヤに手渡した。
「私はベネトナシュという。君は?」
ブルネットの髪に、深い緑の瞳でその人はサイヤに聞いた。
「私…私は…」
なんて答えよう。なんて言えばいい。
彼の質問は単純だったが、それだけに素を晒せと言われている気がした。
喉がひくひくと動くのが自分でわかった。
「私はサイヤ・ジンクスです。ジンクスは、北部の神霊院の子どもに与えられる苗字で…歳は、十九になります」
侍従見習いは未成年、つまり十七歳以下と決まっている。
サイヤが侍従見習いとして王都に上った時、既に彼にその資格はなかった。
ベネトナシュは目を細めた。
たかが年齢といえども、国の法律を破り、周囲を欺いていた。
「…サイゼル、お前もよく見抜いたじゃないか」
「神霊院育ちは、昔ヨギに連れられて行ったから見た事がある。どいつもこいつも、自分は可哀想だって顔をしていたが」
「おいおい」
「おれは辛気臭いのが嫌いなんだ。媚び諂う奴らも嫌いだ。だがその点、サイヤは何の落ち度もなかった」
責められると思ったが、サイヤにとってそれ以上につらい一言だった。
ぽろり、と切れ長の瞳から涙が飛び出した。
泣くまいと思った、誓っていたのに。
「兄弟同然の、侍従見習いとして採用された奴が、病で急死して…それで…」
サイヤはサイゼルを見れなかった。
「院長さまに頼んで書類を書き換えてもらったんです。本当です……」
カチャカチャとティーカップがソーサーにぶつかる音がした。
目を閉じると浮かんでくる、寂れた住まい。神霊院と併設される孤児院は、院長が高齢なこともあって手入れが行き届かず、修理されないまま放っておかれた。
軋む扉から、壊れた窓ガラスまで通り抜ける冬の風。
温暖なジアンイットでも、北部の冬は寒く、町は色を失くしてしまう。
あの暗く寒い冬を乗り越えた生涯の友人は、あっけなく、この手を握りながら死んでしまったのだ。