大学都市編 大師ベネトナシュ②
その後もサイゼルはサイヤを連れ回した。
これが、あの地面から生えたような巨大な棟の中なのか。今いる場所が棟のどの辺になるのか。
そんなことは考えても意味がない。魔法という、内部の不可思議に覆われていて、自分がどこにいたのか、どこを歩いているのかさえわからなかった。
巨大図書館は巨木の洞をくり抜いたような円柱形だった。古今東西の書籍、巻物、論文が所狭しと並んでいる。どこか生き物のように、本が棚の中で蠢いている気がした。
あちこちの棚には高い梯子がかかり、壁のランプは本物の火のように見えた。
そこでサイゼルは図書館の司書から、初心者向けの薬草図鑑を借りてくれた。
サイヤのためにだ。ここへ来る途中、幌馬車の中で話したことを覚えていてくれたらしい。
サイゼルから図鑑を受け取ったサイヤの、青白い頬に赤みが差す。
サイヤは大事そうに図鑑を抱えた。本は高級品だ。貸本屋にあるのは、その多くが薄い娯楽本である。
専門書は娯楽本より何倍も分厚い。だから何十倍も高い。つまりは田舎の貸本屋などでは滅多に扱わないものなのだ。
サイヤは孤児院にいた時、なんとかお金を貯めて貸本屋に足を運んでも、借りられるのは子ども向けの絵本がせいぜいだった。孤児院は神霊院にあるため、質素な最低限の生活は送れたが、個人の嗜好品や贅沢なものは夢のまた夢だ。
自分の腕の中に、ずっと夢見た薬草の本がある。これほど心躍ることは、人生であっただろうか。
そのサイヤの様子を、サイゼルは表情を変えずじっと見下ろした。
図書館を出て、次は何かとサイヤがそわそわしているが、曲がりくねった廊下をひたすら歩くだけだ。
途中、何度か扉をくぐったが、部屋かと思えばまた廊下が続いている。
棟の中にいるはずなのに、街中をぐるぐると歩き回っているような気分だ。
しかも、景色が変わらない。
蛇の住処にでも入っていくように、長い廊下をひたすら歩いた。
「ふん、今回は周到だな…」
サイゼルがそう呟いた時だった。
ぱっと床が抜ける。
「わっ わっ わあああああ」
サイヤは必死にサイゼルの衣服を掴んだ。片手は薬草図鑑を握りしめている。落下していく感覚は一瞬だった。
「…あれ…」
サイヤが目をつぶった一瞬で、着地したのだろうか。それにしては、どこも痛くない。しっかり立っている。落ちたらその分、着地の衝撃があるはずだ。
それがない。ということは、これも魔法なんだろう。でもなんて意地悪な魔法だろう。
「サイゼル・アンバー・マゼント。従者サイヤ・ジンクスを伴い参りました」
握りしめた衣服の先を見やれば、サイゼル殿下が真剣な顔をして、前を見つめて名乗っている。でも、そこには何もない。
ここは廊下か、部屋かもわからない。
二人の周り以外が、真っ暗だったからだ。
ボッ ボッ
サイゼルの視線の先に、黄緑色の火が二つ灯った。暗闇に浮かんだ火は、何かの目のようにも見えて不気味だ。
“嘘偽りある者はここを通れず”
火が揺らめいて、声になって二人に届く。
「…そうか」
サイゼルが振り返ってサイヤを見た。
「サイヤ、お前だな」
問われたサイヤは、何を言われたかわからなかった。
いや、ほんの数秒だけ、わからなかった。
途端に血の気が引いていく。眉が引き攣るようだった。
「で、殿下! け、決して、決してサイゼル殿下を騙そうと思ったことではありません!」
腹の底がよじれるように痛む。
ここには自分とサイゼル殿下しかいない。サイヤとは自分だ。それはわかっている。殿下に名指しされた。いつか、いつか誰かにそう聞かれるかもしれないと思ってきた。
それが怖くて怖くて、たまらなかった。
「腹の内などわからん」
そのサイゼルの言葉に、彼にしがみついていた手を離した。
不敬だ。いくつも重ねて不敬だ。どうしよう。
サイヤは頭を上げられなかった。
「おれは回りくどいのは嫌いだし、お前を待つ時間も惜しい…なあサイヤ、お前本当は、幾つだ?」
頭を下げるサイヤに、覗き込むようにしてサイゼルが言った。
喉仏、手首の骨、関節や顎、足の大きさ…注意深く観察すればそれが子どものものではないとわかる。だから連れて来た。
サイゼルは慈善事業のために、サイヤを喜ばせるために同行させたわけではなかった。
サイヤを、リオネルやマコトから、引き離そうと思ったのだ。