こぼれ話③ ルネの落ち葉拾い
子どもたちは年に一度、秋の収穫祭が終わると神霊院から贈り物をもらう。
ある子には羊皮紙、ある子には紙。開けてからのお楽しみだ。
紙は原材料に木片が使われるので高価だった。農民はおいそれと手が出ない。
しかし字を覚えるため、書く練習は必要だ。いつもの小さな黒板や地面ではなくて、紙に書くということを覚えなければ大人になってから困る。
そこで、年に一度の贈り物という慣習が生まれた。
ルネは旅芸人の一座で諸国を巡行していたので、子ども時代にその贈り物の恩恵が受けられたのは二回だけだった。
それでも嬉しかったものだ。
紙をもらったら丁寧に折りたたんで、折り目でマス目を作る。その小さなマスの中に文字が入るよう、慎重に一文字ずつ書いていく。集中しなければ子どもにはできない。だから年を越すまでに、少しずつ書いて練習を重ねるのだ。
マス目が全て字で埋まった時の達成感と喜びは格別だった。年越しは、それを枕元に忍ばせて寝たのを覚えている。マス目が進むごとに、字が上手く、綺麗に見えたように、踊りも上達するはずだと思った。
羊皮紙をもらった時は、細い棒や金属を押し付けて横線を引く。紙と羊皮紙では、ペンを握る力の強さが全く違う。だから両方で練習する必要があるのだ。
契約書が読めないようでは商売すらできない、金の計算もできないと馬鹿にされる。
そうやって足元を見られたらお終いだ。
不器用な子は羊皮紙が好きだと言ったが、ルネは紙への憧れがあった。薄くてさらさらしていて、最高級の衣装に使われる絹地を思わせた。
繊細で、力を入れすぎると破けてしまう。インクがもたついて字が潰れることもあった。
こんなに違うものかと、それはそれは驚いた。
春鶴たちの売春宿で、同輩たちに聞いても皆同じような経験をしていた。どこの国も、似たような慣習があるらしい。
あれは嬉しかったなあ、なんて言って笑う。そういう、共有できるものがあるのは面白かった。生まれた国も、ここへ来た経緯も見た目も違うけれど、何か大切なものを抱きしめたことは同じなのだ。
春鶴になって、売春宿に売られ、店を転々とするうちに店への契約と借金が膨れ上がっていたこと。それら何重もの契約書が紙で取り交わされていたことは、露程も知らなかった。後々になって、アスクード伯爵様が教えてくれたが、悪質な売春宿はそうやって、売春夫が逃げられないように契約を何重にもしておくらしい。
こっちの店の借金が返せても、こちらはまだ終わっていない、という汚い商売だ。
おれたち春鶴の出口は、そうやって塞がれていた。
ルネはふと思い立って、引き出しから小さな布切れを取り出した。その包みを開くと、枯れ葉が一枚出てきた。
木が葉を落とすと、町の人間はよく落ち葉拾いに駆り出された。殻材をはじめ、落ち葉は何かしらの材料にするのだ。街中に植えられた木々は、葉を落としても腐葉土は作れない。石造りの舗装された道では、土に還れないからだ。
その時、綺麗な落ち葉を探してこっそりと自分のものにする。
木々の管理に五月蠅い信心深い人たちも、これくらいは見逃すという。
押し花のように、綺麗な葉脈が浮き出たそれをつまみ上げて、ルネはあれをやろうと思った。
ペンにインクをつけ、丁寧に書いていく。
枯れ葉は紙より繊細だというから気を付けて、細心の注意を払って。
「…できた」
完成したものを眺めるとにやけてしまう。
左に、ルネの名前。右にはマクナハンと書かれている。
これは民間伝承というには拙い、おまじないの一種だ。
落ち葉に想いを寄せる相手の名前と、自分の名前を書いて保管する。一年間、この葉が欠けることなく綺麗に保存できれば、想いは成就するというものだ。
客に想いを寄せていた年上の春鶴が昔教えてくれた。
ルネはおべっかや、その場に合わせて口達者な自分を演じることはできた。
でもいざとなると、勇気が出ない。好きだと言えない。
あの方がここにいる間、伝えようかと思ったが出来なかった。
ルネが初めてマコト達と会った日。
マクナハンは馬の世話を終えて邸の中へ入る所だった。
庭の草木を眺めていたのだろうか、すれ違いざまに声をかけた。
ルネは服装から、売春夫とわかる姿をしている。だからきっと、この人も嫌な顔をするのだろうと思った。
わかっていたのに、なぜか気になって声をかけたのだ。
「何を見ておいでですか?」
「……勿忘草が咲いていましたので」
「勿忘草」
「亡くなった母が好きで、家の裏手に植えておりました。つい懐かしくて」
頭髪も眉毛も剃り上げた強面の騎士が、そんなことを言うものだから意外だった。
ルネに普通に接したことにはもっと驚いた。
ルネが目を丸くして固まっていると、騎士は照れくさそうな顔をして行ってしまった。
ルネが驚いた理由を勘違いしたのかもしれない。
馬鹿にしているわけじゃありませんと、ただ一言それが言いたかった。
けれど言い出せずにいた。
言う機会はあったはずだが、ルネはその時、本懐を遂げるまではと思ったのだ。
水車に括りつけられ殺されそうになっていた所を助けたのがマコトと騎士マクナハンだと知ったのはだいぶ後だった。
彼らが街を出るまで、言うんだ、と何度も自分に言ったではないか。
死にかけたんだから、ここで言わないと。せっかく助けてもらったんだから。
そのお礼も伝えたかった。
ただの売春夫ではない、春鶴だとわかってもあの方は…また話をしてくださるだろうか。あの照れくさそうな顔が、また見れたらいいのだけど。
ルネは悶々と思い悩んだ。
そして時間ばかりが過ぎてしまって、とうとう言えなかった。
でもこれを見せたら、伝わるかもしれない。伝わらなくても、話のきっかけにさえなればいい。
そう願いをこめた。インクが乾いたのを確認して、また布に包んだ。
割れないように、細心の注意を払ってそっと引き出しにしまう。
なんだか今まで感じたことのない、ふわふわとした感覚を覚えた。
いい歳して商売上がりが恥ずかしい。でもこれが真心なんだ、きっと。
字の練習をしていて、これほど良かったと思ったことはなかった。