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第五十四話 春の鶴たちⅢ



 夜に飛びかう、青い蝶がいるという。ルネは見たことがない。

見つけたら踏み潰してしまおうと思った。いつか客から寝物語に聞いた時そう思ったのだ。

踏み潰したら、そこにおれたちがいることに気付いてくれるだろうか。

殴られて蹴られて、道端で蹲って生きるしかないおれたちを、見て見ぬふりをして皆通り過ぎていく。そうか、おれたちは見えないのか。

そういうことになっている。誰もが通り過ぎる。人の目は過ぎ去っていくだけで、おれたちを見ようとしない。どんなに褒めそやされても、それはベッドの上だけの戯れだ。



青い蝶が泳ぐように飛んでいく。

自分の身体がない。だから踏み潰すことができない。

あの青い蝶を踏み潰してしまいたい。

でも本当はその蝶が羨ましいのかもしれない。

闇夜に飛んでも、見てくれる人がいる蝶が。美しいというだけで見てくれる人がいることが。


 その闇夜から抜け出たような黒い人。神子様、マコト様の瞳は潤んで光っていた。綺麗だと、ルネは息を呑んだ。

そして驚きながらも呆れた。きっとあなたは、青い蝶を見れば、無邪気に笑う人だろう。あの檸檬畑でルネの踊りを努力だと言ったときのように。

ルネはマコトのあの時の言葉を、心の底に大事にしまい込んである。

取り出して見つめるには眩しかった。あの黒く濡れた瞳のように、混じりけのない美しさには気が引けた。


そうして金髪のコールボーイは、リオネル大公を見た。その手に握られた手帳、あそこに全てがあるはずだ。この街の汚泥が、腐臭を撒き散らす元凶がそこにあるんだ。


「どうかお調べください! この男の、春鶴斡旋の証拠に金銭の受け取りがあるはずです!」

「何を馬鹿な!」


 バートン子爵は大声でルネの言葉を遮った。


「神子様も、こんな売春夫に同情されることはありません。言葉巧み、手練手管はこいつらの十八番です! 騙されてはいけません、こんな、こんな欠け損じの、人ではない奴らのことなど」


「…何かが欠けていたら、人じゃねえのか」


 その場の誰もが、マコトを見た。

マコトはゆっくりとバートン子爵に近づき、彼の前に立った。



「なあ、答えろよ子爵」


 闇が、辺りを覆っていくようだった。

バートン子爵は一度目を逸らしてから、宥めすかすような猫なで声で言った。


「神子様はご存知ないでしょう。春鶴というのは、どうにも子が成せないのです。孕む側としても、何故だか子を生めない。だから奴隷や刑罰だったんですよ」

「…それで?」

「…困りましたなあ…」


 バートン子爵は、幼子の相手をするかのようだった。無邪気な子どもに対して、ほほえましいとでも言いたげに頬の緊張を緩めた。

この男は、神子すら自分より下だと思ったのか。


「獣すら命を生み出す。けれど、春鶴は男として用を成さず、人の生を与えられても全うできないということです。そういう歴史が」


 マコトはバートンの上着の襟を掴んで引き寄せた。


「お前は、お前自身何か欠ける所があっても苦しくないのか」

「…は?」


バートン子爵の下卑た笑顔が、歪んで頬が引き攣った。


「どんな奴でも何かしら欠けてんだよ。完璧に生まれる奴なんていねえんだよ!」


マコトは新宿で、歌舞伎町で嫌というほどそれを見てきた。昼職で全うに働く人でも、夜に酒を出す客商売でも皆同じだった。

疲れて渇き、喉を潤しに来る。その為のホストクラブだ。

それが居酒屋の人もいれば銀座のクラブの人もいる。居心地が良い、自分の渇きを癒したい。そうやって場所を求めていた。



ーーー欠けているから、面白いんじゃねえか。

ーーーみんなでこぼこして、はたけば埃が出る。



声が聞こえた。家族ではない。こちらに来て、頭に響いた声は最初にこう言った。

「何でも、まずはやってみろ」

おれはこの声の主を思い出したくて泣いた。そうだ、おれの靴を選んでくれた人。一緒へ銀座へ行って、それから音楽の話をした。ジャズが好きで、日本人なら美空ひばりが良いと言っていた。



ーーーなあマコト。面白ぇかもな、酒の付き合いってのも。



 白髪交じりの髪を整えた、江戸っ子気質の人だった。

おれに、たくさんのことを教えてくれた人だ。そう、そうだよな。源さん。



「てめえの勝手な妄想で、完璧な命なんてのを拵えてんのかもしれねえがな、お前はどうなんだよ。なあ、お前のために働いてた人が死んだんだぞ。殺されて…それでお前、なんか言ったか? 家令とかいう人の為に、言葉をかけたか?!」



 リオネルは、ぐっと歯を食いしばった。今日まで彼が歩んできた道は、王者の道だ。けれど家族を失った。その上、自分の領地の人々が狙われたのだ。

臣下も、領民も彼の第二に家族だ。そう親から教えられて生きてきた。王家にとって民は守り慈しむものだと、その道を外れればすぐさま転落すると、何度も重ねて刷り込まれてきたのだ。

父母はもういない。分厚い手のひら、その指にはランスター大公の印章、金の指輪が鈍く光っている。

どういう思いでこれを両親から受け取ったか、忘れたことはない。

バートン子爵の胸倉を掴むマコトに、自分が叱られているような錯覚に陥った。

 


騎士たちは背筋を伸ばして、この世界に呼ばれたマコトを見つめた。

マコトは自分の中の拠り所を明らかにしている。それは強さと言い換えでも差し支えない。憧れや親しみを抱いた人たちが、マコトに語りかけてくれるのだ。



「さっきからべらべらべらべら、自分の話しかしないで正気かよ。おれは、おれは……オグライゼンに言ったことを後悔してる。『誰がお前の話なんか信じるか』って、つい言っちまった。でもそれは、おれが子どもの時に向けられた言葉だった。言うべきじゃなかったと思ったよ。あいつは人を殺してる。ルネを酷い目に合わせたし、許してないけど……ああいう奴も人間だ。欠けているけれど、おれの目の前で生きてた奴だ。だからおれは後悔してんだよ」



 子爵は顔を引き攣らせ、目を白黒させていた。きっと、眼前のマコトの言う事に理解が追いつかないのだろう。

ルネに難しいことはわからない。マコトは何故あんな風に怒りを露にしているのか。心の中で、ほんの少しなら自惚れてもいいだろうか。

そう思った途端、黒髪の人の姿が滲んで見えた。



「自分は何か欠けてる、だから後悔することばっかりで嫌になる。それで踏みとどまってるだけなんだよ。踏みとどまれないと、自分が欠けていることの苦しさを何かにぶつけて紛らわせる。嫌になる気分を紛らわせるために誰かを貶めるんだ」



 静けさの中に一つの強い光が差した。


 ルネは自然に、気が付くとマコトに頭を下げていた。

みっともない自分を、この人に晒したくないと思った。汚い自分を見せたくないと、初めて自覚した。

 ルネは、この真っ黒い夜のような人が眩しかった。

神さまっているのかもしれない。おれの踊りを見てくれた人は、おれが青い蝶の話をしたらなんて言うだろうか。闇夜に青く輝く蝶を、一緒に見たらなんと言うだろう。

 ルネは昼日中に、青い蝶の夢を思い描いた。





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